仲良さげなチーム

Poison  

一見仲が良さそうだけれど、実態はそうでもないチームが増えているように感じている。

他人に干渉せず、他人からも干渉されず、程ほどの距離感を保ったまま仕事をする。

とても望ましい状態のように思われる。

でも、というのが今日の話である。

その中で働いている人達は全く心地良いとは感じていないのである。

「気配り至上主義」というか「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」というか、気苦労が多く疲れているような感じ。

ただそれを作り出しているのもそこにいる構成員であるという事実。

自分達が作り出した雰囲気によって、自分達が苦しんでいること、そしてそれに対して自覚的ではないこと。

今日はそんなことを書いてみようと思う。

干渉しないのは良いことか?

他人に干渉しないのは大人の作法である。

僕はずっとそう考えて社会人生活を送ってきた。

ただ、最近は様相が変わってきたように思う。

それは一見大人の作法であるようで、ただ子供っぽいだけであるのではないか。

そんなことを思うのだ。

多くの人達は「仲良く仕事したい」と思っている

僕は元来他人にあまり興味がなく、こちらの領域に踏み込んでこなければ別に構わない、というスタンスで仕事をしてきた。

それは今も変わらず、「社会というのはそういうものだし、そこにいる人達というのは様々であって、どちらかというと関わりを持ちたいと思えるような人は少ない」という考えの中で生活をしている。

だから、別に仲よくしようとも思わないし、仕事上支障がない関係性を保っていればOK、というスタンスでずっといる。

ただ、というのがこれからの話である。

僕とは違って、多くの人達は「仲良く仕事をしたい」と思っているようである。

そして表面上とても感じ良く振舞う(振舞い合う)。

そのくせ裏では陰口ばかり言っている(その当人には言わない)。

僕はこの態度が不思議でならない。

言いたいなら言えよ?

「言いたいことがあるなら言えばいいのに」と思うからだ。

もちろん、職場において言いにくいことはある。

それを言ってしまって、関係性が悪くなることはある。

そしたら確かに仕事はしづらくなる。

でも、それなら陰口は言わなければいいのでは?

そして表面上仲良く取り繕うことをやめたらいいのでは?

単純にコミュニケーション能力が低いのでは?

性別に関係なく、このタイプの人達が職場に増えているように感じている。

それはある種の「配慮」だと言えば聞こえは良いけれど、単純にコミュニケーション能力が低いというか、交渉術がなっていないというか、自分の主張と相手の主張の落としどころを探れないというか、そんなことを思うのである。

社会は自分の思い通りにはならない(当たり前だ)

どちらかというと、意に沿わないことばかりが生じる。

だからその中で折り合いをつけるしかない。

これが僕の中の前提である。

親も教師もいないぜ?

上手く言えないのだけれど、「心理的安全性」という言葉が社会的に認知されるようになってから、「仲が良い」=「望ましい」というような風潮が少し強まったような気がしている。

確かに仲が良いことは望ましい。

「本当に仲が良い」のであれば。

でも、往々にして職場というのはそうはなりづらいものであり、だからこそ仲が良いよりも、言いたいことが言えることが望ましい(それによって多少のカドが立つことはあっても)、と僕は思っている(というか、それこそが心理的安全性という意味なのだ)。

他人が察してくれるだろうであるとか、誰かが状況を好転させてくれるだろうというスタンスは、子供の振る舞いに過ぎない。

社会には、親も教師も存在しない。

自分達で、そこにいる構成員同士で、折り合いをつける「自治」しかない。

僕はそう考えている。

悲劇のヒロインたち

その中で「主張をしない」ということは、「改善しようとする努力を放棄している」ことであると同義であるのに、その努力はせず、傷つくことを過度に恐れ、ただその状態を受け入れている。

そのくせ不満は言う。

これは会議では発言しないのに、決定事項に後から文句を言うというスタンスに似ているように思う。

場が荒れるからとか、空気が乱れるからとか、それを過剰に重んじ過ぎた結果、自分達が苦しんでいるという摩訶不思議な状況。

そしてその努力を怠っていることに対する自覚はない、という他責性。

誰かが何かをしてくれる、その時をただ待っている、それまで私はこの苦難を耐えるのだ、という謎のヒロイズム。

僕には理解できない。

だから僕はサイコパスだと言われるのだろう。

誰かが汚れ役を引き受けてくれるなんて考えるのは甘くねえか?

僕は「陰口を言うなら、主張とセットだろう?」と思っている。

何も主張せず、それを相手が察してくれるなんてことは、考えが甘すぎる。

相手に嫌われたり、自分が嫌な気分になるリスクは負わず、誰かがその役回りを引き受けるであろうことに対する想像力はないことに、僕は本当に嫌気がさす。

それなのに「仲が良いチーム」を夢想している。

そんなものは不可能だ。

言いたいことを言おう

スポーツをやっていた人であれば分かると思うのだけれど、良いチームというのは必ずしも仲良しであるとは限らない。

それぞれの個性があるので、時に対立は生じる。

でもその矢印が内に向かわず、外に向かっていく。

それが良いチームなのだと僕は思う。

内向きのエネルギー、その中での些末な事象、それに対する過剰な配慮。

そんなものは全て不要だ。

言いたいことを言おう。

話はそれからだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

上手に喧嘩する術を持たない人が増えている。

僕はそんなことを思っています。

「論破」という言葉がもてはやされる(されていた)のも、そんなことが関係しているのかもしれません。

大事なのは相手をやり込めることではなく(恨みを買うだけ)、双方の主張の現実的な落としどころを探ることです。

それには高いコミュニケーション能力が求められますし、そこにいる人達の努力が不可欠です。

自治の精神でいきましょう。