処遇に差をつけるのってやっぱり難しいですかね?

手を繋ぎながら、僕たちは沈んでいく

悪平等みたいなものにずっと苛まれている。

「一億総中流」「みんな一緒」のような概念が未だに残存していて、集団から「尖る」人に対しての「叩き」が激し過ぎるのではないか、それが日本から活力を奪っているのではないか、と僕は思っている。

相対的位置を気にし過ぎている、というか。

これと関連して、僕が社会に出て思うのは、人というのは他人のことをとても気にするものなのだ、ということである。

自分の位置を、他の誰かを参照点にしなければ定めることができない人達。

それが社会の多数派を占めるなら、自分が前向きな努力をするよりも、誰かを蹴落として同じラインまで引き摺り下ろす方がコスパがいい、結果として社会全体が下方修正され、下方硬直してしまう、僕はそんなことを時々思う。

手を繋ぎながら、仲良く僕らは沈んでいくのだ。

気鬱な話であるけれど、今日はそんなことを話してみようと思う。

事情はわかるけれど…

マネージャーになってから、「働かない社員」に対して思うことが増えた。

それこそプレーヤー時代においては、そんな人に構うことなく、自分のやるべきことをやっていた訳だけれど(ある種無関係でいられた)、マネージャーになると、そういう人達が部下になる訳で、否応なしに絡まなければならなくなる。

一生懸命働くかどうか、というのは個人の価値観の問題でもあるので、それをどうこう言ったとしても変えられる訳ではないことは僕だってよくわかっている。

そしてそれぞれの人にとって、それぞれの事情があることくらいは、歳を重ねるにつれて理解の度合いを深めているつもりである。

でも、処遇が同じ(もしくは大して変わらない)というのはいかがなものか、というのはやっぱり思うのである。

程度問題はあるにせよ、働きぶりによって、処遇に差が付くのは仕方がないことなのではないか?

僕はそう思っている。

日本的成果主義は手垢に塗れている。でも…

それはもちろん自分自身に対してもそうで、あまり成果が上がらなかった時に処遇が下がってしまうのは仕方がないと思うことは変わらない。

僕は従前から「成果主義」というものに対して肯定的であることをこのブログで表明し続けている。

もちろん「日本的成果主義」が手垢に塗れたものであることくらいはわかっているつもりである。

それでも、もう少し成果の度合いを強めても良いのではないか、というのが僕からのささやかな提案である。

2階は1階の整備の後で

やってもやらなくても処遇が変わらないのであれば、誰だってやる気は起きない。

その中でやる気を出す人は、ある種変わった人であると言えるし、もう少し嫌らしい言い方をするなら「やりがい搾取」の格好のターゲットであるとも言える。

「やりがい」はもちろん大事であるが、それは「2階」部分の話であって、処遇という「1階」部分をきちんと整備した上でのことであると僕は思うのだ。

働かない社員を働かせるのはマネージャーの仕事なんですかね?

マネージャーとして、上司から「働かない社員を働かせろ」というプレッシャーを受けることはとても多い。

でも、働かない社員が働かないのはそれなりの理由がある訳で、それを働かせるように仕向けるのはマネージャーの仕事ではない(一部はそうかもしれないけれど)、と僕は考えている。

それよりは、働く働かないは個人の選択の自由の問題であって、それに応じた処遇の中で各自がどうするかを判断すればいいのでは、と僕は思うのである。

働かない人は楽しくない仕事をすればいいのでは?

そしてここで言う処遇というのは、カネだけの問題ではなく、仕事自体の面白さ度合い、にも関係してくるものである。

僕は仕事に対する価値観が変わりつつあると思っている。

楽しくない仕事(クソ仕事)が圧倒的に多い中で、楽しい仕事をできるというのは、それだけで価値のあることである、と僕は思っている。

だから、「働きたくない人はそういう楽しくない仕事をせざるを得なくしてしまえば良いのでは?」というかなり極端なことを思ったりもするのである。

それでも働かない道を選ぶのであれば、それは個人の自由なのでそれでいいのではないか?

暴論だとは思うけれど、そのくらい僕は働かない人達に苛立ちを感じるのだ。

だから僕は嫌われるのだろう

冒頭の話に戻ると、働かない人はその人個人の問題だけではなく、周囲を巻き込み、チームを下方硬直させてしまう。

そして働く人を妬み、引き釣り下ろそうとする。

僕はこの種の「エセ連帯感」みたいなものが嫌いである。

「不公平」という概念を彼ら(彼女ら)は簡単に持ち出してきて、それを盾に「平等」を主張するのだけれど、スタートラインに立つ権利すら持たない人(相応の努力を行わない人)に「公平も平等もないのでは?」と思ってしまうのである。

厳しすぎるだろうか?

きっと厳しすぎるのだろう。

でも、そのツケを払わされることにだんだんと疲れてきてしまっているのも事実なのである。

ドラスティックなものではなく、少しだけ傾斜をつける方向に寄せるそれだけで社会的な活力がもう少し高まるのではないか、僕はそんなことを思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今日の話は様々な議論を生むものでしょう。

でも僕が思うのは、他人に関わりを持たないで、その人の価値観に基づく選択を尊重しながらも、社会の活力を取り戻す何らかの方法は(僕の提案が望ましいものでないとしても)必要なのではないか、ということです。

僕はもう少しシンプルな世界を望んでいます。

そしてそれは属人性に任せるのではなく、制度としてやった方が良いのではないか、と思っています。

共感は難しいかもしれませんが、考えるきっかけにして頂ければ幸いです。