カタールW杯日本代表とマネジメント

UnsplashFauzan Saariが撮影した写真

この記事を書いたのは2022年12月7日です。

日本代表にとってのカタールW杯が終わった。

クロアチアに負けてベスト16で敗退した。

このブログを書いているのは、その敗戦の次の日である2022年12月7日である。

サッカーの専門的な解説はこれから徐々に出てくると思うので(というかこれがアップされる頃には既に出ているだろう)、プロの方にお任せするとして、僕はマネジメントの観点からこの日本にとってのW杯を総括してみたいと思う。

特にクロアチア戦については、1回しか試合を見ていないので(見返していないので)、やや荒っぽい話にはなってしまうと思うけれど、そのライブ感・生っぽさを感じて頂けたら幸いである。

それでは始めていこう。

振り返ることは野暮なのか?

勝てば官軍。

終わり良ければ総て良し。

マネジメントという仕事をしていると、こんなことを思う時がある。

そしてそこに含まれる「日本的美学」みたいなものというか。

また、振り返り、分析することを「野暮」と捉える感覚というか。

選手は確実に進歩している。では、マネジメントは?

サッカー日本代表は、戦前の予想を覆し、ドイツ・スペインという強豪国に勝利し、予選リーグを1位で通過した。

この事態は本当に素晴らしいものであると思う。

以前の日本代表にはない、「力強さ」みたいなものを感じた。

日本サッカーは確実に進歩している。

選手たちのレベルは確実に上がっている。

そこまでは疑いの余地がない。

では、マネジメントはどうだっただろうか?

そしてそれを受け止めるメディア・ファンの姿勢はどうだったのだろうか?

僕はここでいつも暗澹たる気持ちになる。

博打が当たっただけでは?

ドイツ戦の予想外の勝利、ハーフタイムの戦術変更、それを見て、初戦が終わった後、過剰に「名監督だ!」と持ち上げる論調があったように思う。

確かに、今までの日本代表には見られなかった大胆な戦術変更、それに応えた選手たちの振る舞いには、僕も心を揺さぶられた。

ただ、そこに「イチかバチか性(博打性)」みたいなものを感じたのも事実である。

それがたまたま当たった、その感覚が拭えなかったのだ。

でも、会社に行けばみんな手放しで褒めているし、メディアを見れば「名将だ!」と絶叫している。

そうか、またいつも通り、僕の感覚はおかしいのか。

そう思うことになった。

アジア予選のデジャヴ

そして迎えたコスタリカ戦。

アジア予選の再現のように、ベタ引きの相手に何もできず、アンラッキーなゴールで敗戦。

これはずっと見てきた光景だ。

アジア予選での無策さの繰り返し。

そこにはマネジメントが機能しているようには思えなかった。

そしてそれ以上に不思議なのは、またメディアとファンが手の平を返すことだった。

「ドイツ戦(特に前半)と何が違うのか?」と僕はまたそこで違和感を覚える。

戦犯探し、個人への糾弾、サッカーってそういうことだったっけ?

というか、戦術ってあったのか?

と僕は思うのだけれど、それについて同じような水準で話をできる人は皆無だった。

ドイツ戦の二番煎じ感はあったにせよ…

スペイン戦。

追い込まれた時の日本人のメンタリティは恐ろしい。

やることが明確だと力を発揮する。

そして今回の4試合の中では、一番戦術的なものを感じたのがこのスペイン戦である。

狙いとコンセプトがよく理解できた。

結果も伴った。

そうなのだ。僕が見たいのはこのようなサッカーなのだ。

それは勝敗云々ではない。

明確な意図を持った戦いを見たいのである。

クロアチア側にはマネジメントがあった。が…。

そしてクロアチア戦(決勝トーナメント1回戦)。

前半から相手のアンカーの選手が浮いていて嫌な感じがずっとあったのだけれど、後半になってもそれに対する手当はなされていないように見えた。

もちろん選手個人での判断(修正)はあったと思う(守田が途中からマンマーク気味で見ていたような気がする)。

ただチームとして、マネジメントとして、それが指示されていたのかはやや疑問なのだ。

そしてクロアチアの戦い方はとても強かだった。

ロングボールをサイドに蹴り込み、日本の両サイドを下げる(三笘・伊東という両サイドの攻撃の開始位置を下げ、リスクヘッジをする)と共に、セカンドボールをきちんと拾っていく。

体格差を上手に使った効果的な試合運びが共有されている感覚。

繰り返すが、勝敗云々ではないのだ。

そして選手たちはとても勇敢に戦っていたと思う。

ただ、そこにマネジメントは機能していなかった。

僕はそう思うのである。

論理とアート

サッカーには論理とアートがあって、特に攻撃においてアート性が重要視されるのは事実だ。

ただ、ベースとなる論理はあるし、それがチームコンセプトというものだと思う。

それがアジア予選からずっと見えない。

そのままの状態で本戦を迎えてしまった。

そして幸運も相まって、予選リーグを突破した。

喜ばしいことだ。

でも、喜ばしいだけで片づけてはいけないのだと僕は思う。

蒸し返してはいけないのか?

健闘を称える論調。

蒸し返すのは野暮だという雰囲気。

でも博打が当たっただけなのでは?

それも連続で。

流石に3回目はなかった(分析もされていたように思う)。

散る美学。

後は野となれ山となれ。

それもわからなくはない。

でも、検証をしたいのだ。

それを次に繋げたいのだ。

熟慮を

結果論。

たられば。

そういう話もよくわかる。

でも、あの選手たちならもっとできたはずなのだ。

表層だけではなく、ドロドロとした深みに手を突っ込もう。

熟慮しよう。

僕たち日本人はそれがとても苦手だ。

でも、それができなければ、ベスト8は無理だ。

サッカーだけの問題ではないけれど

僕はマネジメント不全を感じた。

それは選手たちの責任ではない。

もしかしたらサッカーだけの問題でもない。

論理を。

言語化を。

頭から血が出るくらいの熟考を。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

ロンドンのエミレーツスタジアムでアーセナルの試合を見た時に、僕が感じたのは、観客のサッカーを見るレベルの圧倒的な高さです。

当たり前の話なのかもしれませんが、選手のプレーに対する反応が日本のソレとは大きく違う。

もちろん歴史の深さが違うのでやむを得ない部分はあると思いますが、そのような批評性を持ったファンが、サッカーをより戦略的なものにし、マネジメントにも緊張感を与えているように感じました。

そしてそれはきっとサッカーだけではない。

僕たちには「マネジメント成分」が圧倒的に足りません。

分析や批評、論理と言語化、アートとサイエンス、言葉は何でもいいのですが、そういうものが絶望的に欠如しています。

第三者視点で、俯瞰的鳥瞰的視点で、物事を見ていきましょう。