「言っても無駄」な上司たち

UnsplashPatrick Foreが撮影した写真

的外れの方向の努力が更に部下を冷めさせる

旧時代のマネジメント新時代のマネジメント

現代はその端境期だと僕は思っている。

かつての「ザ・昭和」のマネジメント手法が通用しなくなり、多くのおじさん(おばさん)マネージャー達は右往左往している。

彼(彼女)らは彼(彼女)らなりに適応しようと努力はしているのだろうけれど、どうもその努力は的外れであることが多く、その結果多くの部下(特に若手)はそっぽを向き始めてしまっている。

「どうせ言っても無駄だ」と諦め、静かに離職をしていく。

確かに現代において、マネジメント業務というのはその複雑さを増している。

では、そのような時代において、「言っても無駄」だと部下に思われないようにするためにはどうしたらいいのか?

今日はそんなことを書いていこうと思う。

キーワードは「可変性」

先に結論を言うなら、キーワードは「可変性」であると僕は思っている。

というのも、「言っても無駄だ」と思われないということは、「言ったら何かが変わるかもしれない」という可能性を感じられることであるからだ。

自分の何らかの働きかけによって、変化をもたらすことができるかもしれないという可能性の提示。

それこそが新時代のマネジメントには求められるのである。

有能感と存在証明

と偉そうな書き方をしているけれど、まあ当たり前と言えば当たり前の話である。

でも、ここで思考を裏返すというか、逆側からこのことを眺めてみて欲しい。

「言うだけ無駄」「言うだけ損」ということがあまりにも繰り返されているから、部下は上司に愛想を尽かしているのである。

旧時代のマネジメントのことを少し思い返せば、その事例は枚挙に暇がない。

そこには変化していく可能性変化を及ぼせる可能性がないのである。

これは言葉を少し変えれば、「有能感」というものになるのかもしれない。

「存在証明」と言い換えることもできるのかもしれない。

要は、そこに自分がいる意味がある、ということを感じられることが重要なのである。

「お前の代わりはいくらでもいる」という呪いの言葉

またこれも当たり前ことを言っている。

でも、あまりにも(日本の)職場ではそれが実現されていないのだ。

人間は部品ではない。

でも、「お前の代わりはいくらでもいる」というのが日本の職場における「決めゼリフ(かつ呪いの言葉)」でもある。

僕たちは代替可能。

それは究極的にはそうなのかもしれない。

「全て個人が尊重される」なんてことは、あまりにもユートピア的な発想過ぎるから。

ただ、「尊重度が0」というのは、それはそれであまりにも極端なのではないか?

というか、仮に尊重度が0だとしても、それを上手に騙せていないのだとしたら、それはマネジメントとして失敗なのではないか?

僕はそんなことを思うのである。

詰み?

私の仕事は変わらない。

私の上司は変わらない。

私の会社は変わらない。

私の人生は変わらない。

詰み。

それが若手たちが会社を去る理由なのだろうと僕は思う。

何を言っても無駄。

ということは、この状態が永遠に続くということ。

詰んだ人生。

そんなイメージなのだろう。

0と100の間

その考えは浅はかである、とは思う。

人生は単線ではないし、RPGでもない。

自分の力で仕事を変えることはできるし、上司を変えることはできるし、会社を変えることはできるし、人生を変えることはできる。

ただ、それは彼(彼女)らがイメージできる射程の範囲内の努力では難しいし、その努力をもってしても、自分が変えたいと思うくらいのレベルまで変えられる訳でもない。

0か100かで、選ぶ話ではないのだ。

でも、僕から見える多くの若手はそのような一足飛びを望んでいるような気がする。

現状維持過ぎるのもまた問題

一方で、多くのおじさん(おばさん)達は現状維持を決め込み過ぎている。

可変性というのは、確変ではないのだ。

でも、かといって、硬直している訳でもない。

漸進的に、もしかしたら変化に気づかないくらいの微々たる変化。

それじゃ遅い。

物足りない。

若手たちはそう思うのだろう。

気持ちはわかる。

おじさん(おばさん)たちはあまりにも「凝り固まっている」から。

革命とその後の物語(歴史の教科書をご参照)

若者とは変革を求める。

革命を展望する。

それは現代に限らず、いつの時代だってそうなのだろう。

でも、僕が思うのは、「それはそれで問題も多いぜ?」ということだ。

「今がダメ、じゃあこっちだ!」という発想。

わからないではない。

そして、そうでもしないと変わらない、という無力感にも共感する。

ただ、それは解ではないのだろう、と(今の)僕は思っている。

橋を架ける

僕にできることは、この両者の架橋である。

革命でも、現状維持でもない、変化の萌芽みたいなものを育てていくこと。

その可能性を信じられるようなチームを作っていくこと。

幻想? OK!

僕たちは変化が可能である。

それだけの可能性を手にしている。

そう信じられること。

甘酸っぱい戯言。

青臭い幻想。

わかっている。

でも、それがなければ、つまらないじゃないか?

新時代のマネジメントには、言ったら何かが変わるかもしれない、という幻想が必要なのだ。

いいじゃないか、幻想でも。

僕はそう思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

停滞感。

それは何も会社だけでなく、日本社会全体を覆っているような気がしています。

そこから脱する為には、何か変わっているかもしれないと感じられることが重要です。

逆に言えば、そのような予感がないから、極端な方向に向かってしまうのでしょう。

変化の可能性。

それを変化量だけで見るのではなく、変化率でも見ること。

そうすれば、少しは希望が見えてくるかもしれません。

少しずつでも変わっていきましょう。