正しさだけではたぶんダメ

UnsplashShubham Dhageが撮影した写真

健全であるがつまらない遊び

多様性なのか、ポリティカルコレクトネスなのか、要因はよくわからないけれど、「正しさ」が世の中に蔓延した結果、全体が均一的に低下しているのではないか、そんな印象を僕は持っている。

こんなことを言うと、その界隈から物凄く叩かれそうであるが、実際にそう思ってしまうのだから仕方がない。

社会から「尖り」が失われ、平等や公平の名の下に、皆が下方修正されてしまっている、そんな風に僕は思っている。

その方向性はある意味では健全であるとも言える。

でも、その健全さはとてもつまらないもののようにも思えるのだ。

まるで学級委員長が提案した遊び方みたいに。

イノベーションは「際(キワ)」で生まれる。

猥雑というか、ごった煮というか、汽水域というか、その種の境界線が入り混じった場所で生まれる。

そこに正しく線引きすること、境界線を明確に定めることは、面白さを失わせる。

でも、その失われる面白さへの感度が極端に欠如している。

そんな人たちと仕事をすることが増えた。

今日はそんな話である。

規制とそれによって失われるもの

規制が強化されると、地下に潜る。

歴史を振り返るまでもなく(例えば禁酒法)、人類というのはそのように規制をかいくぐって生きてきた。

公平さについてもそのように感じることがある。

もちろん、公平さは大事だ。

それに異を唱えるつもりはさらさらない。

ただ、それを推し進めることによって失われるものがあるということについてはもう少し想いを馳せてもいいのではないか、と僕は思っている。

それが尖りであり、そこから生じるイノベーションだ。

旧来のマネジメントは均一化を志向する

これはある種マネジメントとは相反する概念であると言えるのかもしれない。

というのも、マネジメントというのは均一化を潜在的に志向するものだからである。

いや、言葉の定義をきちんとした方がいいかもしれない。

「旧来のマネジメント」「工業的(線形)マネジメント」には相反する概念であり、「新時代のマネジメント」「非線形マネジメント」には適合する概念である。

僕はそのように考えている。

正しさのループ

「正しさ」には余白がない。

その意味で窮屈だ。

でも、「正しさ」には誰も逆らえない。

それは「正しい」からだ。

このループ。

そこから抜け出すには?

2分法を超えて

僕が考えるのは2分法ではないものだ。

「正しさ」「正しくなさ」ではなく、その「あわい」にあるもの。

「正しさ」「正しくなさ」から、レイヤーを一つ上げたもの。

そこに「尖り」や「イノベーション」があるのではないか?

そしてそれを醸成するのが新時代のマネジメントなのではないか?

僕はそのように考えている。

ルールがないと、難易度が上がる

ここには「正解」がない。

そういう意味では、難易度が高い。

「これをやればOK」というような価値尺度がないので、マネージャー自身が部下の行動の是非について常に0ベースから判断をしなければならない(ルールや規範があるのは、判断の負荷を減らす為である)。

それを「×部下の人数分」やるのは大変なことで、確かに限界があるのも事実だ。

でも、それを何としてでもやらなくてはならないのでは?

そんな風に思うのだ。

線を引かなければ、分断は生まれない

これは僕が最近考えている「分断」の議論にも繋がってくる。

直線を引くから、そこに分断が生まれるのだ。

だったら、それを有耶無耶にしてしまえば?

ふにゃふにゃした曲線水で濡らして柔らかくなりぼやけてしまったような境界線。

もしくは、それを俯瞰から見ているような視点。

それが分断を生まない為の作法なのではないか?

そんなことすら思ってしまうのである。

曖昧2.0(アナログ2.0)

曖昧なものを曖昧なままにしておくと、青筋を立てる人がいる。

確かにその気持ちはわからなくはない。

残存された曖昧性によって、僕もたくさん痛い目に遭ってきたから。

でも、僕が最近考えているのは「曖昧2.0」みたいなもので、敢えてそこに線を引かないことで分断を回避する、そういうことだってあるのではないか、ということである。

ただし、「曖昧1.0」「曖昧2.0」の違いは確実にあって、それはそこに判断軸というか規範というか、インテグリティ(integrity)のようなものが存在しているか否か、ということである。

確かに「あわい」ではあるのだけれど、そこにいる人たちがある種の規範を共有していること。

ただ、それはある種「うつろうもの」で、「正しさ」のように固定化していない。

そう言う意味では、「アナログ性への回帰」とも言えるのかもしれない。

いや、回帰ではないのだ。

「アナログ2.0」のようなもの。

0と1で世界を区切るのではなく(デジタルではなく)、かといって行き当たりばったりでもなく、ある種の高潔さに基づいて判断がアナログに行われていくこと。

それが新時代のマネジメントには求められるのではないか?

僕はそのように考えている。

AIに近づくか、遠ざかるか

ChatGPT-4oの衝撃。

でも、それはデジタルに情報処理されているという現実。

「正しさ」の思想は、僕たちをAIに近づけていくものだ。

それを超克するには、アナログのままではダメで、それを超えるようなハイブリッドな感性サイボーグのようなイメージが求められる。

そして、そこには「心」が必要となる。

そういう意味では、当分僕の仕事はなくなりそうにない、そのようにも思えるのである。

変な話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

正しさは楽。

線を引くとストレスが減る。

そんなことを最近は考えています。

そして、皆、そのストレスへの耐性が減っているのではないか、とも。

曖昧なものが残存していることは、何となく居心地が悪いものです。

でも、そのような曖昧性の中にこそ、面白さも生じるような気もしています。

デジタルが溢れる世の中で、アナログを志向するのは、何だか時代錯誤のように聞こえるかもしれません。

ただ、僕が感じているのは、以前のアナログではなく、それを超えたもの(アナログ2.0)です。

曖昧性と上手に付き合っていきましょう。