優秀さと優秀っぽさの違い
「自分で考えて行動できる」だけではダメ?
優秀な部下とはどんな部下だろうか?
この問いについて、以前僕は「自分で考えて行動できる」ということを挙げたような気がする。
要は、自発性の有無が優秀さの分かれ目となる、と僕は考えている訳だ。
今日はその中でも、本当に優秀な部下と、優秀っぽく見える部下の違いについて書いていきたいと思っている。
どちらも僕が考える優秀さの条件(自分で考えて行動できる)は満たしている(とする)。
ただ、どうにもそこには違いがある。
それって何なのだろう? というのが今日の話である。
結論が出ている訳ではなく、今書きながら同時進行的に考えていることなので、どこに辿り着くかわからないけれど、取り敢えず始めてみようと思う。
クレバーな部下への違和感(と物足りなさ)
クレバーな部下が増えたな。
もしくは、そつない部下が増えたな。
そんなことを最近感じている。
デッドラインというか、ここを踏み越えたらダメだよなという線をきちんと理解した上で、どのように立ち回ればいいのかということが自然とできる部下の増加(特に若手)。
それは一見すると良いことのように思える。
でも、僕は何故かわからないけれど、そこに違和感(と物足りなさ)を覚えるのだ。
先手を打てないこと(後手であること)
それは自分を動かすものの主体を他者に委ねているように見えるからかもしれない。
要は、動機が他者発信なのだ。
受け身、というか、後手、なのだ。
ある外部からの刺激があって、それにどのように対応すると一番望ましいのか、ということに彼(彼女)らは長けている。
それは僕が考える「自分で考えて行動できる」という優秀さの基準を満たしてはいる。
でも、その考えの中に、自分はいない。
先手は打てない。
そこに優秀さと優秀っぽさの違いがあるように感じている。
レスポンスが上手い=優秀?
これは「レスポンスの上手さ=優秀さ」と捉える傾向から生じている、とも言えなくはない。
確かに、「返しが上手いこと」は優秀さの条件の1つではあるような気もする。
でも、そこにはドライブ感がない。
レイヤーが上がっていくようなワクワク感がない。
話が発展していかないのだ。
こちらがボケても、叩き落される(というか静かに押し戻されるという方が適切か)感じがするのである。
スコアレスドローの試合
同じ地平でのそつのない会話。
それは確かに失点は少ないだろう。
でも、得点も得られないのでは?
というか、そのような失点の少ないやり取りができること(だけ)を、優秀であると捉えてはいけないのでは?
僕はそのように思うのである。
先手は後手を前提とした思想だ
となると、僕は優秀さの条件を書き換えなければならないのかもしれない。
というか、冒頭に書いた「自分で考えて行動できる」という意味の捉え方に注意書きを添える必要があるような気がしている。
自発性というのは、その言葉の通り、「自ら発する性質を持っている」ということだ。
「先手を打てる」こと。
そこに僕は優秀さを感じるのである。
いや、もっと適切に表現するなら、「先手」という発想は「後手」があるから生まれるものであって、それではきっといけないのだと思う。
後手を想定した先手なんていらないのだ。
ふと出た着想、自分ですらなぜそれが出たのかわからない発想。
それが取り出せること。
それこそが優秀さの条件なのではないか?
そんなことを考えている。
答えを想定している時点で手遅れ
コスパや最適解。
そういうものを最短距離で出すことが、優秀であると皆思っているように感じる。
でも、そこにはコストという概念や最適という概念が前提とされている訳で、その時点でもう既に後手に回ってしまっている。
というか、何らかの「答え」を想定している時点で、それはもう手遅れなのだ。
これは「問う」ことの重要性と言い換えてもいいのかもしれない。
先手を打てるということは問うことであり、それもその問いがふと出てしまうところに優秀さの一端があるのではないか?
書きながら今僕はそんなことを考えている。
AIは後手で、予測可能で、だからこそつまらない
これはAIへのアンチテーゼというか、対AI的な考え方と言えなくもない。
AIが得意とするのは、「答えること」である。
こちらからの入力に対して、出力することである。
そういう意味では「AIも後手である」と言える(シンギュラリティ後はそうではなくなるのかもしれないけれど…)。
たくさんの「答え」に囲まれて、検索エンジン的な概念に浸されて、僕たちはそれができること=優秀であるということをごく自然に受け入れてしまっている。
そして、そこには確かに自発性がないこともない。
でも、つまらないのだ。
その人のフィルターを通す意味を感じないのである。
自動演奏に僕たちが魅力を感じないように、1/f揺らぎに僕らが心地よさを感じるように、予測できない変化こそがそこに存在する意義なのでは?
即興性に興奮を覚えるのは、規則的な(予想可能な)展開をつまらないと感じるからなのでは?
不調和と不均衡と不可能性
一定のリズム。
そしてそれを時に崩す不調和。
それに僕たちは優秀さを感じるような気がしている。
均衡と不均衡。
予測可能性と不可能性。
それを丁度いいバランスでもたらせること(それも無意識で)。
それこそが僕が今考える優秀さの条件だ。
(予想通り)変な話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
アドリブ。
即興性。
そこに僕は優秀さを感じます。
それは予測不可能であるから。
そして、先手も後手もない、瞬間的なものだから。
テンプレの反応。
100点の回答。
そういう人達に辟易してしまっています。
というか、それならオレはAIでいいや。
ChatGPTと話をするわ。
そんなことを考えてしまいます。
何らかの「破れ」。
予測できないもの。
ふらふらとランダムウォークしていきましょう。