ジョブ・ディスクリプションと仕事の押し付け合い

UnsplashNadine Shaabanaが撮影した写真

誰のものでもない仕事の押し付け合い

ジョブ型雇用。

一時期(というか今でもそうだけれど)、「旧来のメンバーシップ型雇用を脱して、ジョブ型雇用に移行すべきだ」という論調が盛んになり、当社においても以前に比べると「職務内容を定めることは良いことだ」という考え方が普遍的になってきたように思う。

その結果、仕事の押し付け合いが頻発することになった。

これはまあ予想通りの展開ではある。

志のある人が大勢いるならジョブ型雇用というのは上手くワークするのかもしれないけれど、元々あまり仕事をしたくない、仕事の範囲を拡大したくない人が大半を占めるなら、「空いた領域(空白地帯)」が無数に生じるであろうことは明白ですらあった。

「誰のものでもない仕事」を黙々とやっていた人が、その権利を主張できるようになったことは確かに良いことではあるのかもしれない。

でも、それによって、職場はギスギスするようになった。

もちろん、それは必要な移行過程なのだろう。

ただ、それが解決する見込みはあるのか(本当に「移行過程」で済むのか)と僕は感じている。

表現が難しいが、結局のところ、「コトを荒立てるのも面倒くさいし、自分でやってしまった方が早いし…」と考える人がそのような仕事を引き取る羽目になるのではないか?

そして、そこにはマネージャーもそれなりに多く含まれるのではないか?

今日はそんな話である。

同一労働・同一賃金

同一労働同一賃金。

ジョブ・ディスクリプションと役割給。

要は賃金に見合った仕事内容(仕事内容に見合った賃金)を実現すべきだという考え方。

それ自体は議論の余地がないというか、まあ当たり前の話だよね、と僕も思う。

そして、そのようにすべきだ、とも思う。

何か変じゃね?

ただ、現実問題として、「仕事の範囲を明確化する」というのはどういうことなのだろう、とも思ってしまう。

それは叶えるべき理想ではあるけれど、現実に適用しようとした時に叶うものなのか、僕には甚だ疑問である。

ましてや、中途採用市場が中途半端な状況にある日本において、また雇用規制が強い日本において、「その職務内容をあなたは満たしていないので解雇です」ということはあまり起こり得ず、結果的に「職務内容を限定したもの勝ち」のような状況が生まれているように感じている。

自分の職務範囲を狭くすればするほど、それもしっかりと明記すればするほど、実際の仕事量は減り、給料との乖離は大きくなり、コスパが向上する。

このような仕組み。

となると、多くの人たちにとっては、仕事内容(業務領域)を少なくすることにインセンティブが働くことになる訳で、結果として「それは私の仕事ではない」と大きな声で主張できる人が有利な状況が生まれてしまったように感じる。

もっと言えば、それによって声の小さい人は以前よりも苦しい状況というか、モヤモヤとした状況に追い込まれているような気さえしている。

表現が難しいが、職務内容として規定されていないことまでやっている人は「奇特な人」というか、「ボランティア感覚でやっているんでしょ(本人が望んでいるのだからいいじゃない)」というような雰囲気がより顕著に漂うようになったように感じている。

それは最近僕が思っている「評価者の質の低下」が間違いなく関係している。

でも、それだけではなく、もう少し大きな問題もそこにはあるような気がするのだ。

アメリカ化して競争力は上がった?

「日本型雇用慣行は間違っている」

「それが企業の競争力を削いでいる」

「だから改善すべきだ」

このような論法。

これがもう数十年続いている。

そして会社はどんどん「アメリカナイズ」されてきている。

ただ、それによって、本当に競争力は高まったのだろうか?

僕には甚だ疑問である。

乱暴な議論

確かに、日本型雇用慣行には問題も多い。

それには僕も全面的に賛成する。

ただ、良い所もそれなりにあったし、それを十把一絡げのように、「全部ダメ!」というのはやや乱暴ではないか?

そのように思うのだ。

懐古主義になるのではなく

元々個人主義的な気質を持った日本人が、曲がりなりにもチーム感を持って仕事に取り組むことができたのは、日本型雇用慣行の貢献もあるのではないか。

もちろん、改善すべき点はたくさんある。

「昔は良かった」という懐古主義を申し上げたい訳ではない。

ただ、純粋に「競争力」というか、「成果」という面で見た時、どちらの方が優れているのだろうか(もちろん二者択一ではないのだろうけれど)?

他にやりようはなかったのか?

ジョブ・ディスクリプションには弊害が多いとも聞く。

(かつての?)日本企業のように「間に落ちた仕事」「グレー領域の仕事」をチーム単位で克服していくやり方を、外国企業は羨望の目で見ている(見ていた?)という話も聞く。

繰り返すが、そのやり方には問題がたくさんあって、泣き寝入りしている人がたくさんいたことは事実だろう。

でも、それを壊すのではなく、アップデートするという発想はなかったのだろうか?

また、以前よりもおかしな状況でそのような「間に落ちた仕事」をやっている人がいる現状に対してどのように考えるのだろうか?

ジョブ・ディスクリプションと賃金の(下方)修正(もしくは解雇権)はセットでなければならない、僕はそんな風に今考えている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

変にアメリカナイズされたことによって、おかしくなってしまったことがあるように感じています。

もちろん、日本型経営に問題が多分にある(あった)ことは事実でしょう。

でも、良い部分まで壊す必要はあったのでしょうか?

そして、それは吟味する目を僕らが失ったこと(評価者の劣化)も関係しているのではないでしょうか?

脳死状態で「日本はダメ」と言うのではなく、「アメリカ礼賛」をするのではなく、功罪両面を見ながら判断していくことが僕らには必要なことであるような気がしています。

(我々)評価者の目を鍛えていきましょう。