放置すると、職場は腐っていく

UnsplashGiorgio Trovatoが撮影した写真

規律と自由のバランス

「一定の規律はありながらも、自由闊達な組織」

僕がイメージする良い組織というのは、こういうものである。

そして、それは実現可能でもある。

昭和時代もしくは昭和時代の香りが残る時代においては、「規律」と「自由」の重心は「規律」へ偏り過ぎていて、職場はピリピリとしたものになっていた。

言い方は悪いけれど、「軍隊」みたいな組織であったわけだ。

上意下達が当たり前で、上司の言うことは絶対で、部下の意見が採用されるなんてことはあまりなかった。

また、一見統率が取れているようではあったけれど、上司のことを信頼したり尊敬していたりするかというと、そんなこともなかったように思う。

翻って現在。

先程の重心は、今度は「自由」に寄り過ぎているように僕は感じている。

多くの上司がハラスメントと告発されるのを恐れ、何も言えなくなった結果、職場は無法地帯のようになっている。

ただ、それは一気に到来した訳ではない。

リンゴが腐るように、徐々に徐々に悪化していったのである。

この重心を少しだけ「規律」の方向に戻すことが必要なのではないか、と僕は考えている。

それはどうやったら実現できるのか、その方法論も含めて以下書いていこうと思う。

それでは始めていこう。

職場は「徐々に」腐っていく

「2年もあれば、職場が腐るのには十分」

そんなことを思ったりする。

せっかく築き上げた良い組織も、上司が変わり、方針が変わると、徐々に悪くなっていく。

この「徐々に」というのがポイントである。

変化が訪れるまでにはラグがある

方針を変更し、その効果が出るまでにはタイムラグがある。

これはマネジメントという仕事をしている者であれば、実感を伴って理解できる話であると思う。

即効性のある施策というのは(あまり)存在しない。

だからこそ戦略策定というのは非常に重要であり、その長期的な影響も加味して、方針を決定を下さなければならない。

今日はその影響の中でも、悪い方向への影響について詳しく書いていく。

ある時点から急速に悪化することはない

組織が悪化するとき、「ある時点から急激に悪化した」ということはまず起こりにくい。

もちろん、厳密に言えば、悪化するにあたり、方針の変更が実行されたその時点というのがその転換点ではあるのだけれど、それがピンポイントで示されることは殆どない。

「気付けば悪くなっていた」

「そう言えば、あの辺から組織は変わっていた」

多くの人の実感はこのようなものだろう。

そして、もっと言えば、その際の転換点そのものはそこまで悪くないものであることが多いような気がしている。

バタフライエフェクトではないけれど、ちょっとした方針の変更が、後々の組織の悪化に大きな影響を及ぼす(でも、その時点では大した変更ではない)、そんな風に思うのだ。

人間の行動には慣性の法則が働く

それは人間の行動には「慣性の法則」が働くからであると僕は考えている。

人間は昨日の行動と、今日の行動に大きな変更がないことに安心する生き物である(というか、生物というのは基本的にそのようなものだろう)。

だから、ちょっとした環境変化に対して、ビビッドに反応することは(あまり)なく、同じような日々を過ごしていく。

でも、日が経っていくと、ちょっとした角度の変更がいずれ大きな違いになるように、行動が変わっていく。

それも、1人だけではなく、組織の成員がそれぞれそのように変わっていく。

結果的に、気が付けば組織の行動そのものが変わっている。

そんな感じなのである。

炭鉱のカナリア

だから、組織の腐敗を止めるには、どこかの時点で方針の変更が必要となる。

そして、できればその変更は早いに越したことはない。

もちろん、上述したように、何がトリガーとなって組織が悪化しているのかというのは露見しにくいので、その判断はとても難しいものにはなるのだけれど、組織にいる感度の高い人たち数人が「なんか、おかしくね?」と声を上げだしたら、そのタイミングなのではないか、と僕は考えている。

嫌われ役も必要

これはよく言われる話ではあるが、「違う意見を言う人こそ近くに置け」ということを意味する。

今回の話であれば、「自由」に寄り過ぎた組織の雰囲気を「おかしいぞ?」と感じる人を近くに置き、「規律」の方向に舵を切る、ということになる訳である。

そして、規律の方向に舵を切るというのは、「上司(や先輩)が嫌われ役になる」ということなのではないか、とも思っている。

現代の職場は、「みな仲良し」みたいな雰囲気である。

だれも他者を攻撃しない。

平和的で、牧歌的ですらある。

それは一見良いことであるように思える。

でも、それによって失われるものあるのだ。

耳の痛いことを言う人をもう少し評価すべきでは?

「言うべきことを言いながらも、それなりの関係性を築ける」というのは、「何も言わずに、それなりの関係性を築ける」ことに比べ、圧倒的に高いスキルが求められる。

そして、組織としてはそのような人材をもう少し評価すべきなのではないかと僕は思っている。

もちろん、組織が腐敗していくことを看過するならそれはそれでいいと思う。

ただ、元に戻そうとしてもそう簡単には戻らないし、その時にはもう手遅れではあるのだけれど。

何だか変な話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「見て見ぬフリ」

これが最近の風潮です。

出来るだけ火の粉が自分に降りかからないよう、皆行動しています。

そしてそれは個人単位では別に悪いことではない(ある種やむを得ない)ようにも思います。

でも、そのような個人の行動の累積が組織の行動となり、結果的に組織が腐敗することに繋がっていきます。

ハラスメントを恐れ過ぎた結果、職場は無法地帯となり、誰もその責を取ろうとしません

その中で僕たちが出来ることは、ちょっとずつ嫌われ役を買って出ることなのではないか、と僕は思っています。

若者たちに阿り過ぎず、時に嫌われていきましょう。