形式主義はもうやめよう

体裁を整えることに情熱を注ぐ人たち

物事を始める時に、体裁を整えることに心血を注ぐ人は多い。

外側を綺麗にすること、滑らかにすること、格好つけること、まあなんと名付けてもよいけれど、「形から入る」ことに必要以上に情熱を傾けてしまう人は多いと思う。

そして残念なことに、本人はそのことに気付いていない。

もしかしたらこれは頭の良い人の傾向なのかもしれないけれど、僕からしたら、「とりあえずやってみないとわからないんじゃない?」「そしてやりながら手直ししていけばいいんじゃない?」というような程度のことに拘泥しているような印象を受ける。

例えが適切かどうかわからないけれど、英語圏における論文の書き方のようなイメージで仕事をしている感じだ。

目次はこうで、章の構成はこうで、それを節に分けて、みたいな形で全体観を示そうとする。

それ自体は「正しい」アプローチ方法だとは思う。

でも、全ての仕事の進め方をそうしてしまうと、前に進むことはできない。

僕は仕事の進め方を、前に向かっていくものと、後ろに下がっていくものに大別している。

ゴールに向かって1歩1歩進んでいくものと、ゴールから逆算して少しずつ戻ってくるもの、というようなイメージで捉えている。

そして今回のテーマは後者を必要以上に重要視するのはもうやめた方がいいのではないか、ということだ。

理想への盲信度合いによって評価を行う

「べき論」はビジネスには不可欠だ。

理想的な形状をイメージすることなくして、仕事を進めていくのは見当違いも甚だしい。

それは確かだ。

でも、目の前の現実と、あるべき姿、というのは乖離が大きいことが多い。

その時に優先させるべきは、目の前の現実の方だと僕は思う。

これを履き違えてしまうと、議論が宙に浮いてしまうことになる。

みんながみんな現実的には不可能だと思いながら、でもそんなことを言うと空気を壊してしまうから、糾弾されてしまうから、そんなことを微塵も思っていないかのように振舞う。

理想は理想として、建前は建前として、空中に留まったまま、仕事を進めていく。

そして、その理想への忠誠心の強さ(懐疑心の少なさ、盲信度合いと言い換えてもいい)によって人間の評価を行っていく。

砂上の楼閣におけるダンス・パーティー。

疑いを持つものはどんどんと排除されていって(もしくは馬鹿らしくなって自発的にいなくなってしまって)、ダンスをしている人はどんどん純化されていく。

同一思考を持つものしかそこには残らなくなる。

でも音楽はいつか止まる。

そしてその時の状態を想像できるものはいない。

β版を改良していく

良いとか悪いとかではなくて、これは僕たち日本人が抱えている民族的な傾向なのだと思う。

それはある種の時代においてはとても有効に機能するけれど、そうでないこともある。

そしてたぶん現代は「そうでない」方の時代なのだ。

目の前の現実から1歩1歩歩いて行くのは、どちらかというとバカみたいに見える。

何の計画もなく、闇雲に歩いているように見える。

でも、「何が当たるか」なんてことは計画したところで分からないのが現代であると僕は考えている。

五月雨式とは言わないまでも、色々なものをつまみ食いしながら、そこでの反応を伺いながら、ビジネスを進めていく。

β版を常に改良していく。

それは継ぎはぎだらけの不格好な代物だ。

でもそれ以外に方法がないような気もしている。

風呂敷を広げても、中身が入っていないのであれば何の意味もない。

それであれば、目の前の1人の顧客を捕まえた方が手っ取り早い。

そんなゲリラ戦みたいなものを都度展開していく。

もちろん振り返りはすごく重要だし、常にチューンアップしていかなければならない。

でもその転がっていく方向は初めから定めない方が良い。

僕はそんなイメージで仕事をしている。

中間領域としての「チーム」

上手く言えないのだけれど、「企業」というものはこれから少しずつ解体していく、と僕は考えている。

コロナウイルスもその1つの契機であったと思うけれど、不確実性が高い現代において、静的な(固定的な)組織を維持していくのはリスクが高い。

固定費は少ない方が、身軽な方が、良い。

たぶんその傾向が強くなっていくのだろう。

一方で、個人が個人として生き残っていくことができるかというと、それはそれでやや心もとないと僕は思う。

それは力関係的なものもあるし、仕事の射程的(範囲的)なものもある。

だからたぶん中間領域としての「チーム」みたいなものが残っていくのではないか、そんな風に僕は捉えている。

そういう時には、大きな枠組みの「大義」みたいなものではなく、目の前の小さなニーズを的確に捉えていく、ような仕事の進め方がより求められるようになるだろう。

地に足のついた言葉を使う

副業も兼業も当たり前の世の中になれば、「所属」というものがどんどんと不明瞭になっていく。

かといって、僕を含めた大多数の凡庸な人間達は、その「個」だけで勝負できる確率は低い。

その時に必要な概念は、その場にいるメンバーとチームの能力と環境に適応していく「動的な」仕事の進め方だと僕は考えている。

大上段に構えるのではなくて、途中参加も可能で、途中退出も可能で、1つずつブロックを組み上げていくような、勢いのある仕事の仕方。

そんなものがより必要になっていくと思っている。

でもそれができる人はたぶん思いの外少ない。

地に足のついた言葉を使える人。

ビジョンを地面に下ろすことができる人。

どんな環境においても逞しく能力を発揮できる人。

そんな風なイメージを持って僕は仕事をしていこうと思う。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

仕事をしていると、「そこじゃないんだけどなあ…」と思うことが多々あります。

重箱の隅をつつく、というか、僕からしたら大勢に影響がないことに対して、鬼の首を取ったように叫んでいる人というのは思いのほか多いです。

組織の内側だけで仕事をしているのであればそのスタンスでもいいのかもしませんが、僕たちが競うべきは外にいる相手であって、そこでのどうでもいい議論に勝利することではありません。

もちろん細部を蔑ろにして良いということではなく、スピードと質のバランスをどこで取るかが大事なのですが、そこは上手く伝わらず、ただの「雑な奴」というような扱い方をされてしまいなす。

天動説と地動説の論者の違いのようにたぶんいつまでも僕たちは分かり合えないのでしょう。

嫌になることは多いですが、できることを1つ1つやっていこうと思います。

共感できるところがあれば幸いです。