「やる気を出せ!」ではやる気は出ない
「状態」を指摘しているだけ
どのチームにもやる気がないように見えるメンバーはいるものだ。
僕は営業部隊の課長なので、時に「数字」が「やる気」のバロメーターとして扱われる。
そんな時に「やる気がないんじゃないのか!」と怒鳴るのがマネジメントの手法として主流(?)であるようだ。
僕からしたら、それはやる気がない「状態」を指摘しているだけであって、大事なのは「なぜ」やる気がない状態になっているのか、それを改善するためには「どのように」すればいいのか、であって、ただ静的な状態を指摘してもどうにもならないと思うのだけれど、このような檄を飛ばすマネージャーはとても多い。
もう少し言うと、そもそも数字が上がっていないのは「やる気」が原因ではない場合すらある。
というか、その「やる気」を削いでいるのがマネージャー自身であることすらある。
今日はそんなちょっと曖昧な話をしてみようと思う。
やる気がなくても数字が上がっていれば「やる気がない」とは言わない不思議
僕は全般的に「根性論」「精神論」に大別される議論があまり好きではないのだけれど、この「やる気を出せ!」論もこの範疇に含まれるものだと思う。
「頑張れ!」と言われても頑張れないのと同様に、「やる気を出せ!」と言っても出ないものは出ない。
それは人間の意志というのは内側から生じるものであるからだ。
もちろん信頼できるマネージャーから「やる気を出せ!」ということを言われて、「確かに最近はやる気がなかったかもしれない、頑張ろう!」みたいなことを思うことはあると思うのだけれど、それも重要なのは結局それを受けた「自分がどう思うか」である。
外発的な刺激はあくまで刺激であって、そこから行動を変える為には本人がそう思わなければならない(内発的動機)。
納得しなければ、腹落ちしなければならない。
それなのに、「やる気を出せ!」と言われても、「じゃあ具体的にどのような状態がやる気がある状態なのですか?」「というか、やる気がないとおっしゃっていますが、それは単に数字が上がっていないからで、数字が上がっていればやる気がない状態でも文句は言わないでしょう?」「じゃあ、単純に数字を上げろと言っているのと同義(同語反復)ではないのですか?」みたいな回路を辿るだけだ。
「私は部下のやる気を出せない無能なマネージャーである」という宣言と同義
僕ははっきり言ってやる気がなくても全く構わないと思っている。
というか、この種のマネージャーが言う「やる気」がなくても全く構わないと思っている。
外に出すだけがやる気の表現方法ではないのだ。
それぞれのタイプがあっていいし、所謂「やる気」がなくっても全然構わない。
プロセス至上主義みたいなものに僕はあまり興味がない。
大事なのは成果だ。
そういう意味において、もしあるメンバーの数字が上がっていないことが問題だと思うのであれば、その数字を上げる為にはどうすればいいのか、その為にマネージャーにできることはないのか、ということを考えるのがマネージャーの仕事だ。
これもたぶん伝わらないと思うのだけれど、「やる気を出せ!」と言っているマネージャーは「私は部下のやる気を出せない無能なマネージャーである」ということを大声で叫んでいるのに過ぎないのに、それを指摘する人は皆無であることが僕にはよくわからない。
それをするのがお前の仕事なのではないのか?
それを本人だけの責任にするのは、マネージャー失格なのではないのか?
僕はそんな風に考えている。
一律のマネジメントの限界
もう少し今っぽい話をすると、以前に比べて仕事というものの重要度が下がっているのだと僕は思っている。
仕事というのは人生の一部でしかなくて、そこに全精力を注ぐことが全てではない、という価値観が広がってきたのだ。
それはむしろ健全じゃないのか、と僕は思う。
24時間戦う必要はないし、会社に全てを捧げる必要はないのだ。
その時々、たまたま集まったメンバーが、それぞれ働いているに過ぎない。
人によって「働く」ということへの意味や傾注度合いは違うし、将来への考え方もそれぞれ異なるだろう。
そんな中で、一律に「やる気を出せ!」と言っても、それは現実的ではない。
いつも言う話であるが、それは昭和のマネジメントだ。
「男性・新卒・正社員・日本人」向けの、旧世代のマネジメントだ。
プロセスもやる気も不要
価値観や働き方が多様になってきている現代において、部下の内発的動機をいかにして引き出すか、というのは難問である。
それぞれの部下には、それぞれの「やる気スイッチ」があるからだ。
そして、もう少し冷たい言い方をするのであれば、それはマネージャーが押しに行かなくてもいいものなのだ。
やる気があろうと、なかろうと、僕自身ははっきり言ってどうでもいい(他のメンバーの能力を阻害する種類のものであると困るけれど)。
(繰り返しになるが)大事なのは成果だ。
成果が上がらないのであれば、処遇が良くなくなるだけ。
人格が否定されるわけじゃない。
ただそのシーズンの成果が上がらなかっただけだ。
また次のシーズンが始まる。
それについて本人が挽回しようとするならそれでいいし、どうでも良いと思っているならそれでも構わない。
その責任を拭うのは第一に本人だ(もちろんマネージャーにも責任はあるが、僕はそうならないように他のメンバーを使うことでチームが停滞しないようにする。「やる気」に左右されるチームはボラティリティに左右されるのと同義で、あまり望ましいものとは言えない)。
僕はただの監督に過ぎない。
能力があるものを効果的に使うだけだ。
それができないということは、僕の能力がないということだ。
プロセスは不要。
やる気も不要。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
この「やる気」論も同調圧力の一形態であると僕は思っています。
みんなが同じようにやる気がなければならない。
そうでない奴は「空気」を乱す奴だ。
そういう「みんな一緒」という考え方が僕は苦手です。
朝が苦手であるとか、月曜日は気が重いとか、もっと言うと、家族と上手くいっていないとか、親の具合が悪いとか、ぞれぞれの人にはそれぞれの事情があります。
そして仕事というものへの価値観もそれぞれ異なります。
それを一律にマネージャーの思い通りにしようという考え方自体がおかしい、と僕は思ってしまいます。
好きに働いてくれればいい(でもプロなので成果は当然に求められる)、というのが僕の方針です。
低体温で淡々といい仕事をしていきましょう。