定性評価はいらない

UnsplashDavid Gorが撮影した写真

上司の好みでは?

定量評価と定性評価。

僕の会社では人事評価には2種類あって、それぞれを評価しなさいと言われている(ウェイトは大体半々くらいだ)。

でも、その度にこう思うのだ。

「定性評価ってなんだ?」と。

営業という職種上、定量評価はよくわかる。

成績が良ければ良い評価、悪ければ悪い評価。

営業を仕事とする者なら、誰しもが「そりゃそうだよね」と思う項目である。

では、定性評価とは何か?

それって上司の好みに過ぎないのでは?

だったら、なくてもいいのでは?

今日はそんなことを書いていく。

定量評価が悪くて、定性評価が良いとは?

結論から先に申し上げると、定性評価を定量的な指標に変えてしまえばいい、と僕は考えている。

もう少し柔らかい表現で言うなら、定性評価項目の定義をもう少し明確にして、それを数値で表せるようにしたらいい、と僕は思っている。

もちろん、現在だって、定性評価とはこういうものであるという指針は会社から示されてはいる。

でも、実際の運用はそこまで厳密ではない。

何となくの雰囲気、印象、みたいなものに大きく左右されている。

では、ここで疑問を呈してみる。

「定量評価が悪くて、定性評価が良い」というのは、どういう状態なのか?

逃げているだけでは?

定量評価と定性評価で4象限を作るなら、両方とも良い、両方とも悪い、は分かり易い。

また、「定量評価が良くて、定性評価が悪い」というのもまあ理解できる(勤務態度や素行など、問題点があるのだろう)。

では、「定量評価が悪くて、定性評価が良い」はどうか?

そんなことが起こりうるか?

確かにチームの為に汗をかいてくれているとか、目立たない部分での貢献度が高いとか、そういった要素は考えられるだろう。

実際にそのようなメンバーがいることは確かだ。

でも、それって本質的にはどうなのだろうか、と僕は思うのだ。

もう少し嫌らしい言い方をするなら、「それって逃げているのでは?」と思ってしまうのである。

チームへの貢献度とは?

ベースは定量評価だ。

必要条件と十分条件で言うなら、定量評価は必要条件だ。

僕はそんなことを思ってしまう。

「営業の数字がイマイチだけど、チームへの貢献度は高いメンバーの評価」「チームへの貢献度は低いが、営業の数字はバツグンであるメンバーの評価」同等ではない。

というか、営業の数字がバツグンなら、チームへの貢献度は高いのだ。

言っている意味がわかるだろうか?

ここに今回の話の問題点があるような気がしている。

電子デバイスで全て計測できるなら意味を持つだろうけれど…

「チームへの貢献度」のような曖昧なものを、もう少し数値化の方向に進めたらいいのではないか、というのが僕がいま考えていることである。

では、チームへの貢献度はどうやったら数値化できるのか?

電話をよく取ってくれる、面倒な事務作業を進んでやってくれる、他のメンバーのヘルプによく入る。

それぞれ何回やってくれたと計測する?

…。

いや、いっそのこと、なくしてしまったら?

もしDX化みたいなものが進展して、人間のあらゆる行動を電子デバイスで簡単に計測できるようになるなら、定性評価というのは十分に意味を持つものになるだろう、と僕は思っている。

でも、それはもう少し先の未来になりそうだ。

その場合、どうやって定性面を計量化するのか?

マネージャーには見えていない部がある。というか、殆ど見えていない。

先ほどの人物は、もしかしたらマネージャーに見えていない部分で変なことをやっているかもしれないじゃないか?

マネージャーがいる時だけ、良くやっているフリをしているとしたら?

それを「アイツはチームに貢献している」なんて勘違いしてしまっているとしたら?

もう少し厳しいことを言うなら、そのチームの為の行動というのは何を目的としているのだろうか?

僕の会社では個人評価だけではなく、チームの評価も人事評価には関わってくる。

だから、チームの評価という定量評価の為に汗をかくというのは理屈に適っているとも言える。

だったら、それを個人の定性評価で回収するのではなく、チームの定量評価で回収すればいいのでは?

そんなことを思ってしまうのである。

定性評価の存在が働かない人達を生んでいるのでは?

定量評価が悪ければ、定性評価が良いはずがない。

というか、定量評価を良くすべく、定性評価を改善すべきなのでは?

成果が出ていないのであれば、それはプロセスにも問題があるのでは?

厳し過ぎるだろうか?

でも、そのくらいドラスティックに考えないと、「働かない人達」はずっと存在し続けることになってしまうのではいか、と僕は思っている。

処遇の変動が不可能なら、できることに限界はあるぜ?

もちろん、働く働かないは個人の自由だ。

でも、それならそれに合わせて処遇は変動させるべきでは?

僕はそう思っている。

それによって生活に支障をきたすレベルは問題だと思うけれど、みぞおちがグッとなるくらいのインパクトの処遇の差はあってもいいように僕は考えている。

大事なのはパフォーマンス(成果)だろう?

程度問題ではあることは重々承知している。

でも、定量面だって、定性面がしっかりしていなければ、そこまで突き抜けた数字にはならないはずなのだ。

それを誤魔化したり、曖昧にしたりするから、働きもせず、努力もせず、文句ばかり言う社員が増えるのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

成果主義は導入初期の不手際によって、変なイメージがこびり付いてしまった。

そんなことを僕は感じています。

高い成果を上げた人に高い処遇を、低い成果の人にはそれなりの処遇を。

それって差別なのでしょうか?

「じゃあ、成果とは何を指すのか?」

「他人を蹴落として、成果を出しているヤツを評価するなんておかしくないか?」

言いたいことはわかります。

でも、今よりはマシでは?

少なくとも、僕は自分の処遇が下がることに何の違和感もありません(それが定量評価によるものなら)。

「じゃあ高すぎる目標は?」

「達成不可能な目標は?」

成果主義の悪用の類。

確かに。

でも、(繰り返すようですが)今よりはマシでは?

僕は日本の現状が歯がゆくて仕方がありません。

僕たちはもっとできるはずでは?

別に他国からの称賛とか、経済的地位の向上とか、そういうものが欲しい訳ではありません。

ただ、もっと面白い国だったはずでは?

多くの素晴らしき先人たちのようにはなれなくても、僕たちにできることはあるはずです。

いい仕事をしようぜ?

そういう奴らを称賛しようぜ?

足を引っ張り合うのはもう嫌なんだよ。

僕が望むのはそれだけです。

引き続き読んで頂けたら幸いです。