優等生的発言とその実現可能性
その場をやり過ごす為だけの言葉
長年仕事をしていると、「実現できる人」というのは思いのほか少ないことに気づく。
「言うこと」は誰でもできるが、それを「実現できる人」はごく少数だ。
ましてや、それがキレイゴトというか、優等生的発言であれば尚更のことである。
これは「言いっ放し」が罷り通っているから生じている事態であると僕は考えている。
要は、「検証していない」ということだ。
誰もが自分の発言に対して大して責任も感じておらず、それを言ったところで事後的にお咎めがある訳でもない中で、それっぽい正論を言って、その場をやり過ごすこと。
そして、それを問題だとも意識していない状態。
これは「全発言に対して責任を負え!」ということを言いたい訳ではない。
もう少し実現可能性に想いを馳せてもいいのではないか、という提言である。
そうじゃないと、僕たちはいつまでもアップデートできないから。
同じ地平に留まったまま、グルグルとそこを回っているだけになるから。
今日はそんな話である。
「どうやってやるのか」まで考えられる人は殆どいない
ブログの初期から、「どうやってやるのか」を考えられる人、それを実際に「させられる人」がとても少ないと僕は言い続けている。
それは9年マネージャーをやってきた今も変わらない。
相変わらず実現可能性まで考えられる人は殆どいないし、もっと言えばその手段まで構築できる人は皆無に等しい。
それは異常な事態だと僕は思っている。
でも、他の多くの人はそうでもないようだ。
実現可能性と具体的方法
その場に合った適切な(適切っぽい)発言をすることが良いことで、その実現可能性や具体的方法については特に重要視されていないように僕には思われる。
まあ確かに、あらゆる場面において実現可能性と具体的方法を考えろ、というのは酷かもしれない。
ただ、その逆のような現在、あまりにも実現可能性と具体的方法が考慮されていない状態、というのもいかがなものかと僕は思ってしまう。
場当たり的対応(の連続)
これは冒頭にも書いたように「検証」という行為をしていないことから生じていると僕は考えている。
仮説構築と実験とその検証。
それはワンセットである。
でも、僕たちは仮説構築もしないし、検証もしない。
その場の雰囲気によって実験内容すら変わって(変えて)しまう。
そんな状態なのだ。
場当たり的な仕事。
その繰り返し。
そして思いついたような糾弾。
それをやめないか?
行為者(責任者)不在
もちろん、発言は自由だ。
何を言ってもいい。
ただ、そこにはもう少し責任が伴うべきだし、我々もその責任を問うべきだと僕は思う。
そうしないと多くの物事が空語によって為されてしまう。
そして具体的な行為者や責任者が存在しないかのように扱われてしまう。
ずっと言われている「空気」の正体。
それは令和の時代になっても未だに続いているのだ。
評価できない日本人
「評価者の劣化」ということを最近僕は言い続けている。
でも、これは正しい表現ではないのかもしれないとも思い始めている。
というのも、「劣化」というのは以前は良かったものが悪くなったという意味であり、それは適切ではない(たぶん元から評価者の質は低かった)と感じるからである。
たぶん僕たち日本人は評価というものに慣れていない。
「適切に検証する」という行為を上手にできない。
そういうことなのだろう。
仮説と検証
これは遡ると、適切な仮説構築ができていないことが原因かもしれない。
「現状に対し、ある戦略を取れば、Aという状況になるだろう」という仮説。
そして検証。
結果出てきたものがどうなったか?
次はどのようにすればいいのか?
そのような繰り返し。
そうやって物事というのはアップデートしていくはずだ。
どう見てもAのものを、僕たちは簡単にBと言い切ってしまえる
ここで大事なことは「Aになるだろうという仮説に対して、仮説通りAになった」ということではない。
もちろん、仮説が実証されたことは喜ぶべきことかもしれない。
でも、そうではなく、仮に仮説と違うBとなった時にも、それは重要なデータが得られたと喜ぶべきなのだ。
しかしながら、僕たちはAになるだろう仮説を立てると、何としてもAにしなくてはならない、という使命感のようなものを感じてしまう。
到来した現実がBであっても、それはAである、ということを何とかして証明しようとしてしまう(もしくは証明すらせず、それは一見Bのように見えるが、実はAであると言い切ってしまう)。
もっと言えば、Bになることはあってはならない、それを想定すらしてはいけない、というある種の病気にすら罹ってしまっている。
そんな状態で、アップデートしていくことはできるのだろうか?
未完成さを許容しよう
ある段階において、完璧さを求める必要はない。
仮説構築通りの結果が訪れることが最善ではない。
むしろ、設定が甘かったのではないか、と疑うことだってやっていい。
そのような「未完成さ」。
それを許容する雰囲気。
それが僕らには必要である気がしている。
それが為された時、優等生的発言をする意味は薄れ、実現可能性をベースとしたもう少しまともな議論が会議室で行われるようになるはずだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
現実を歪曲すること。
それも無意識に。
というか、意識はしているのだけれど、そこに自分が存在しないかのように扱うこと。
そのような状況に僕はとても疲れてしまっています。
僕はリスクを負っても、自分の発言に責任を負っていたい。
そうじゃなければ、自分の発言に誰も重みを感じてくれないから。
間違えることは恥ではありません。
それを許容できない環境が、それを恥にしてしまうのです。
皆がアップデートできるよう、思ったことを言っていきましょう。