不機嫌な満員電車に揺られながらその原因を考えてみる

UnsplashAjay Murthyが撮影した写真

僕が知る社会の縮図は満員電車だ

毎朝満員電車に揺られながら会社に行っている。

そして帰りも。

その度に「みな不機嫌そうだな」と思う。

僕が知る「社会」というのは、それもメディア等を通さないで知る社会というのは、行き帰りの満員電車に凝縮されているような気がしている。

もちろん、働いている間にも「社会」との接点はある。

でも、そこにいる人は「よそ行き」というか、それなりにオンの顔をしながら働いている人であって、オフの状態まではうかがい知れない。

そのギャップというか、乖離というか、違和感というか。

もちろん、満員電車という環境下で、健やかな表情を見せるというのは無理な話なのかもしれない。

ただ単に窮屈なのが嫌なだけであって、仕事に対する感情とは別なのかもしれない。

それでも、そこにいると、否が応でもそのように感じてしまう。

そして、もちろん僕自身もそこに含まれている。

不機嫌な満員電車。

車窓に映る不機嫌な僕。

その原因と、それを緩和するような方法について今日は書いてみようと思う。

それでは始めていこう。

デフォルト設定は不機嫌

「現代で働くということは、ブルシットであることを免れない」

「であるからして、不機嫌であることはある種仕方のないことである」

それが今日の議論の前提ではある。

だから、「多くの人のデフォルト設定は不機嫌である」のかもしれない。

ただ、それにしてもね、という風に僕は考えている。

ポジティブでなくても、フラットではあって欲しい

もちろん、仕事に何らかのやりがい夢や希望その他諸々の要素があるとは流石の僕も持っていない。

仕事とは「まあそんなもの」だ。

生活の為に行うものであり、生きていく為にはやむを得ないものだ。

それもよくわかっている。

でも、もう少しどうにかならんものかね、と僕は思っている。

ハッピーでも、ラッキーでも、ポジティブでもなくていいから、もう少しフラットなものになったらいいな、と僕は思っている。

そして、そうならない原因とは何なのかに想いを馳せてみる。

確かに労働環境は良くなった。でも…

働き方改革。

長時間労働やその他様々な労働にまつわる問題を是正するための措置。

それは成功を収めたのだろうか?

僕は甚だ疑問である。

というか、確かに残業は減り、理不尽な問題は緩和され、客観的に見れば、僕自身の労働環境は以前に比べれば確実に良化している訳で、その良化した現在に対してなぜ不全感を抱いているのか僕自身もよくわからないというのが実情である。

第三者視点から僕の過去と現在を見比べたら、「現在の方が断然いいじゃん!」と「その僕」は言うと思う。

そして、その意見に「この僕」も賛同すると思う。

では、なぜこのような不機嫌さが纏わりついているのだろうか?

それを拭えないのだろうか?

それがわからないでいる。

そしてそれはきっと僕だけではなく、満員電車に揺られているこの人達も同様なのではないかと思うのだ。

自己責任論とそのカウンター

個の分断。

共同体の崩壊。

そこまで大袈裟な話ではなくても、そのような方向性が不機嫌の原因なのではないか、と僕は考えている。

ここには「自己責任論」みたいなものが含まれている。

「僕たちは僕たちの人生に責任がある」

「そして、現在のような人生を送っているのはその人の過去に問題があるからで、それはある種仕方のないことである」

そのような議論の展開と方向性。

それに基本的に僕は賛成である。

でも、そのような賛成によって、僕たちは他者への関心が薄れ、そこにいる他人が自分にとって有用であるか否かという視点によってそれらの人を評価するようになったようにも思っている。

自分にとって何らかのメリットをもたらしてくれるか否かによって他者を判断すること。

逆に言えば、自分にとって障害になるような人は敵であると捉えること。

「自分のコスパ向上を邪魔する人は敵だ!」

ここまで露骨ではなくても、そのような態度と方向性。

そうやって僕たちは不機嫌になっているような気がしている。

ヘイトの矢印

ウェットなもの、昭和的なしがらみからの解放。

それは僕も望んだものではある。

でも、それによって、図らずもたくさんの「仮想敵」のようなものが生まれてしまったようにも感じている。

個が分断されることによって(それは僕たちが望んだことでもある)、たくさんの敵が生まれ、そのそれぞれに対して僕たちは敵意を抱いている。

たくさんの敵意の矢印。

そして、当たり前の話だけれど、自分から他者に向いている分だけ、他者からも自分に向いている。

結果として、たくさんの敵意の矢印が入り乱れ、そのヘイトの連鎖によって、社会はどんどんとギスギスしたものになっているような気がする。

いや、ヘイトという程強いものではないのだ。

そこにはそこまでの悪意はない。

でも、ちょっとした嫌な気分。

邪魔だなという感情。

それが僕たちを不機嫌にしているような気がしている。

それは緩和可能なのだろうか?

小さな親切による機嫌の回復

議論の流れからすれば、共同体を再建するというのが、不機嫌の緩和には有効なのだろう。

でも、それは一足飛びには実現不可能であるようにも思える。

となると、どうしたらいいのだろうか?

ここで僕はヴォネガットの「親切」という言葉を思い起こす。

「愛は負けても、親切は勝つ」

そうなのだ。

たぶん僕たちがすべきことは、そこにいる他者に対してちょっとだけ親切にすることである。

そして、それは愛ほど重くあってはいけない。

愛は負けるから。

そのようなニュアンス。

その連鎖による機嫌の回復。

そんなイメージを持ちながら、僕はこれからも仕事をしていこうと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

世知辛い世の中。

自己責任論による個の分断。

頼らないことが是とされる社会。

でも、どこか、不機嫌な顔。

それがデフォルトであること。

そこからの離脱願望としてのFIRE論。

ブルシットな仕事と、そこからの脱出。

幸福とは?

そんな中二病みたいなことを考えながら、僕は働いています。

そして、たぶんできることは、小さな親切をすること。

目の前の人へ。

目に見えない人へ。

その一環としてのブログ。

ただのお節介?

たとえそうであっても。

引き続き読んで頂けたら幸いです。