時には風を読まないことも必要

UnsplashMerve Sehirli Nasirが撮影した写真

ダレトク?

世の中にSNSが普及し、社内SNSなんてものもできてきて、そこで意見を表明する(しなければならない)場面が増えているように感じている。

「みんな仲良く」「一体感」「エンゲージメントの向上」

その他諸々の意図があって、その施策は実行されているのだろう。

だから、僕もそれに乗っかって、「それっぽい発言」をそこに書き込んだりする。

でも、時々我に返って、「これって誰得なん?」と思うことがある。

書き手も読み手もそれがまやかしであると知っている文章。

そこでの空騒ぎ。

「盛り上がっている風」の状況提示。

まあ必要悪ではあるのだろう。

何もしないよりはマシ、確かにその通りだとは思う。

ただ、あまりにもそれがまやかし過ぎるのもどうなのだろうかと僕は考えている。

時には、そこに劇物を流し込んでもいいのでは?

今日はそんな怪しげな話である。

それでは始めていこう。

発言すれば批判と受け取られる

「日本では建設的な議論は不可能」

そう思う時がある。

というのも、「何らかの異議や申し立て=批判」と受け取られてしまうように感じるからである。

ある物事をより良くするためには、意見のぶつかり合いは避けて通れない。

また、その意見のぶつかり合いは決して悪いことではない。

僕はそのように考える。

異論は批判ではないぜ?

ただ、どうやら異なる意見というのは歓迎されないのが日本の組織であるようだ。

こちらとしては、それが批判だとは思っていない。

単なる「提言」である。

でも、それは「批判」「反体制的」と受け取られる。

僕にはこれがいつもよくわからない。

決まっていた結論への着地

もちろん、出された企画や施策が良いものであると思った際にはそんなことはしない。

何でもかんでも、全てあげつらってやろうなんて気は毛頭ない。

でも、彼(彼女)らはそのように受け取るようなのだ。

そして、僕に「面倒なヤツ」というラベルを付ける(これはたぶん事実だろう)。

そうやって、議論は収束に向かう。

というか、始めから決まっていた結論へ着地する。

だったら、会議なんてやめたらいいのに。

僕はそのように思ってしまう。

現実との乖離

これはSNS上の出来事においても同様だ。

というか、上記のような現実や過程があることは忘れ去られたかのように、もっともらしいことがそこには並び、みなそこに賛辞を送っている。

それだけ見れば、とても美しい光景である。

当社はこの上なく上手くいっているように思える。

でも、足元のこの現実。

その乖離。

僕にはそこに書かれていることは別の会社のことなのではないか、と思えてくる。

盛った状態がデフォルト。それでも?

確かに、社内SNSに限らず、SNSというのは元来そのような性質を帯びているものなのだろう。

誰もインスタグラムに載っていることが真実であるなんてことは思っていないはずだ。

そういう意味では、SNSというメディアの特性として、「盛った状態がデフォルトである」というのは事実ではあるだろう。

だから割り引いてそれを眺めるべきではある。

そして、実際に僕もそれを割り引いて見ているつもりではある。

それでも、「余り」が出る。

普段は別にそれでいいのかもしれない。

でも、時にそこに劇物を流し込みたくなるのだ。

イカれてるわけじゃないぜ?

もちろん、劇物と言っても、そこまでイカれた話を書き込もうという訳ではない。

問題発言をしようという魂胆は全くない。

ただ単に、流れに乗らない発言をしてみたい、それくらいのトーンなのだ。

「うーん…」もダメ?

多くの議論は一方向に流れる。

まるでそれ以外の発言は許されないかのように、一方通行以外の通り方は禁止されているかのように、そこでは議論が同じ方向に流れていく。

基本スタンスは「いいね!」だ。

でも、「うーん…」もダメなのだろうか?

きっとダメなのだろう。

そして、「うーん…」ですら、劇物として扱われるのだろう。

僕はそこに違和感を覚える。

というか、確かにSNSでやる話ではないと思うものの、もう少し現実に即したものがあっても良いのではないか、と思ってしまうのだ。

「賛成=コミュニケーションが良い」ではないはずだ

根本にある狙いは、「社内コミュニケーションの良化」、そしてその先にある「成果の向上」であるはずだ。

そして、コミュニケーションというのは、「皆が賛成するから良い」というものではないはずだ。

むしろ、色々なモヤモヤした思いを吐き出して、その上で合意に至るプロセスにこそ納得性が生まれる場合だってある。

ただ、そのようなプロセスは面倒くさい。

だから、上澄みだけ得ようとする気持ちはわからなくはない。

でも、それでは「エンゲージメントの向上」は望めないのではないか?

どこか別の会社の話として、受け取られてしまうだけなのではないか?

そのように僕は考えてしまう。

風見鶏

何かを考えさせるような提案。

そこで議論が生まれるような書き込み。

もちろん、扇動するような目的で書くというのは明らかにNGだ。

そうではなく、本当に良くするためにはどうしたらいいのか、現状ではいけないのではないか、という問題提起は、体制批判ではないはずだ。

そして、そのような異論も包摂するのが、インクルージョンという発想なのではないか?

風見鶏という言葉は、元々は「風に向かって雄々しく立つ」という意味だったそうだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

物事の良い面を見ること。

それはとても大事なことでしょう。

批判ばかりするのは確かに建設的ではないから。

でも、それがあまりにも浮世離れしているのなら、それは大政翼賛会的であるとは言えないのでしょうか?

僕たちは結局あの戦争から何も学んでいないのでは?

厳しい現実を直視するのは、体制批判ではないはずです。

そういう奴を非国民扱いしながら、僕たちの国はまた同じように沈んでいくのでしょうか?

カタストロフィを望む国民性?

僕はまっぴらご免です。

散る美学なんて不要です。

辛くても一歩ずつアップデートしていく道を僕は選びたいと思っています。

こんな僕ですが、引き続き読んで頂けたら幸いです。