真意を知るのはそんなに簡単なことじゃない

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コミュニケーション能力と言えばコミュニケーション能力の話

コミュニケーション能力。

一言で片づけるならそういうことになるのかもしれない。

そうなのだ。

でも、そんなに簡単に片づけていいものではないような気もしている。

部下とのコミュニケーション、というか、「誰か」とのコミュニケーションにおいて、相手の真意を知るということはそんなに簡単なことではない。

しかし、これができるとできないのとでは、マネジメントの難易度は大きく変わってくる。

もっと言えば、自分では相手の真意をわかったと思っているけれど、実際のところは全然違うなんてこともよく起こることなので、よくよく注意して相手と話をする必要があるのだ。

何だか書きたいことは全て書いてしまったような気もするけれど、取り敢えず始めていこう。

部下と上司の言っていることが違う

中間管理職として働いていると、自分の上司と自分の部下のディスコミュニケーションの場面に立ち会う(間に挟まれる)ことがよくある。

上司から部下について言われることと、部下から報告を受けることの内容が異なっているという現象。

それも上司は自信満々にそれを言ってくるような状況。

その度に、コミュニケーションをきちんと取れる人って実はあまり多くないんだよな、ということを痛感する。

勘違い

「話を聞く」というのは、簡単なようで、実はとても奥深く、難しいものである。

ただ、そこに畏れのようなものがなければ、自分は相手の話を十分に聞けたと簡単に思えてしまうものでもある。

そこに大きな罠があるのだ。

先入観によるバイアス

上司側からすると、課長には言いづらかった事象を自分に打ち明けてくれた、という考えになるのかもしれない。

そして、それは一理あるようにも思う。

日々よく接する課長には言いづらいが、時折話をする上級マネージャーには話ができる、そういうシチュエーションは簡単に想像できるし、ある一面では事実でもあるだろう。

ただ、それだけではなく、事前にそのようなバイアスが掛かっているからこそ、そのように思い込んでしまう可能性があることには注意をしなければならない。

大袈裟になる物事

僕の経験上、部下は慣れない上司との会話においては、「それっぽいこと」を言う傾向があると思っている。

「それっぽいこと」というのは、事実ではあるのだけれど本意ではないというか、そこまで本気で考えている訳ではないけれどちょっと気になっているというか、そのような類の話である。

でも、これを聞いた上司は、それこそが重大な事象であると捉えがちだ。

そして、往々にして物事は大袈裟になっていく。

もちろん、その上司の対応が悪い訳ではない。

部下の為に何とかしてやりたい、という善意からの動きだろう。

ただ、そんなに簡単なものでもないんだよな、と中間管理職である僕はそう思うのである。

物事の多面性

物事には多面的な側面がある。

そしてその多面性は、日々の仕事の中で色々な方向に顔を出す。

その一瞬だけを切り取って、それが正しいとか間違っているとか議論をするのは僕には違和感しかない。

そこには前日譚後日譚がある。

文脈行間がある。

動画の切り抜きが必ずしも本意でないように、そこだけにフォーカスすることは事実を歪める可能性がある。

そういうことに僕たちはもう少し意識的であるべきだと僕は思う。

心理的安全性は簡単に確保される訳がない

僕は毎週1on1をやっている。

それは地味な作業だ。

でも、そのような繰り返しの中に、時折真意が混ざることがある。

そしてそういうものこそが真意なのだと僕は思う。

コンサルファームが簡単に言うような「心理的安全性」なんてものは、一朝一夕で担保されるものではない。

そんなに生っちょろいものではない。

日々のある種退屈な繰り返しの積み重ねにより、それが生まれるのである。

コミュニケーションというのは、そういうものだと僕は思う。

それは波のようなもので、また時間軸もそこには大きく関係している。

スキルでどうこうできるものではないのだ。

人の話を聞くことの崇高さ

「傾聴」というものを皆安易に考え過ぎている。

話を聞くこと、話を聞いてもらうこと、というのはもう少し崇高なものだ。

そして、それが現代おいては大きく欠如しているものだと僕は思う。

マネジメントに限らず、仕事全般において、みな「話すこと」に囚われ過ぎている。

でも、大事なのは聞くことなのだ。

それが出来る人は本当に少ない。

聞くことに力などいらない、そんな風に考えている人ばかりだ。

そんなことはない。

人の話を聞くことは、途轍もなくエネルギーを必要とする行為だ。

でも、だからこそ、人に話を聞いてもらった経験は、その人を変える可能性を持つのである。

その人を知ろうとすること

真意を知ろうとする行為は、その人を知ろうとする行為である。

それはホイホイできるものではない。

表面だけをなぞって、分かった気になるものではない。

そのような考えがあれば、真意を知る為の入り口に立つことはできる

そして、そのような人だけが、本当の意味でのマネジメントを機能させることができる。

僕はそう思うのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

真意というのは本人さえ気づいていないものでもある。

読み返してみてからそんなことも思いました。

僕たちが対話を必要とするのは、その対話を通じて自らを知るという側面があるからです。

そして、そのような無意識な真意というのは、その間にある「場」に生まれ落ちます。

その瞬間を大切にすることが大事です。

安易に真意だと思い込まず、その時をじっくりと待ちましょう。