部活的思考からの卒業

上司ガチャとそこにあるシニカルな諦念

スポーツ界でのパワハラが報道されるたびに、「まだまだ部活的思考から抜け出すには時間がかかるのだろうな」と暗い気持ちになる。

一方で「報道されるようになっただけマシなのかな」とも思ったりする。

企業に勤めている人であれば、誰しも多かれ少なかれパワハラの場面に立ち会ったことがあると思う。

直接的にそれが自分に向けられていなくとも、職場内において見聞きしたことはあるはずだ。

そしてその多くが闇の中に葬られていく

「上司ガチャ」という言葉が面白いなと思うのは、そのやるせなさみたいなものを端的に表していているからだ(そのシニカルな笑いには諦念しかないけれど)。

どんなに優秀でも、ハズレの上司を引いたら、そこでおしまい。

自分の力でどうにかなるものではない。

自分の振る舞いの変化によって克服できるものではない。

不条理な現実。

それはこれからも繰り返されていくのだろうか。

今日はそんなことを書いていく。

教える側と教わる側という絶対的な上下関係の発動

パワハラという概念には「師」と「弟子」みたいなものが含まれている、と僕は考えている。

「教師」と「生徒」というか、「教える側」と「教わる側」というか、そういう絶対的な上下関係が存在しているように上司側が思うから、このようなスタンスが発動してしまうのだ。

体育会系部活に所属していた人であれば、この感じは分かると思うのだけれど、「年上は絶対的に偉い(能力は関係ない)」という観念は社会人になっても続いていく。

むしろ権力というものを帯びて、より陰湿になっていく。

上司は何でも知っていて、部下はその「正解」に基づいて、大人しく従っていればよい(歯向かう奴には容赦はしない)、という考え方がパワハラを助長するのだろう。

そしてその関係性は仕事上だけでなく、私生活にも敷衍されていく。

絶対的に尊崇するように強制される。

口答えすることは許されない。

ここは軍隊か?

「イエス、サー!」

まあ、きっと、そうなのだろう。

昭和と体罰

子供の頃から反抗的だった僕は、「年上が絶対的に偉い(正しい)」という考え方には違和感しかなかった。

それこそ体育会系部活に所属している時にもそう思っていた。

「どうして競技経験のない(乏しい)、一介の教師の話を聞かなければならないのだ?」と思っていた。

そういう態度を出すと、固い棒で脛を叩かれた。

「これに何の意味があるのだ?」

「これで上手くなるのか?」

僕はそういう部活時代を送ってきた。

地下に潜ったパワハラ

そして会社に入っても、その残り香はあった。

ただ時代は徐々に変わり、パワハラというものは地下に潜るようになった。

そしてより陰湿になっていった。

直接的に(あからさまに)パワーを行使すると問題視されるので、見えないように嫌がらせを行うようになっていった。

いじめがネット上にその主戦場を移していったように。

絶対的な安全地帯から、それこそ返り血を絶対に浴びない位置から、相手をなぶっていく。

兵糧攻めのように、徐々にその力を削いでいく。

気力を失わせていく。

そして退職に追い込んでいくのだ。

ウェットな関係を徹底的に排除する

なんて下らない。

なんて子供っぽい。

でも、世の中にはパワーを誇示したい人がたくさんいる。

それは人間の普遍的な欲求なのだろう。

だから、それを「無くそう」とすることにはたぶん限界がある。

もちろん「少なくする」努力は続けるべきであるけれど、パワハラをする人は一定数残存してしまうということを前提に、制度設計をしていかなければならないのだ。

これは難しい議論になってしまうけれど、会社というものが資本主義の緩衝地帯として機能していた時代(昭和)はもう終わってしまったので、そのウェットな関係性を徹底的に排除していく方向にするしかないのではないのか、と僕は思っている。

職場での関係は、あくまでも職場での関係に過ぎない。

そこでの「上司部下ごっこ」を終えたら、後は完全な他人である。

職場内においても、求められている仕事を双方がこなす(ジョブ・ディスクリプションに基づいて)だけで、それ以上でもそれ以下でもない。

相手がその基準に達しなければ、減給なり降格なり転籍なり、とにかく関係性を終わらせる。

そのような緊張感の元に仕事をしていく。

関係性を重要視するのではなく、結果を重要視する。

実力に基づくドライな関係性。

それでいいのだと思う。

結果だけをシンプルに評価する

コロナウイルスが露わにしたのは、ウェットな関係性はパフォーマンスに影響がない、ということだ。

もっと言えば、本当の実力が開示された、ということだ。

飲み会がなくても、会議がなくても、根回しがなくても、上司がいなくても、できる人はできるし、できない人はできない。

求められている仕事に対して、それに見合ったパフォーマンスを出す。

それをただ淡々と繰り返していく。

形だけの無能な上司に時間を取られる必要はない。

下らない配慮や阿りは不要だ。

まずはそこまで解体してしまえばいいのだ。

そこから、真に意味のある関係性を築いていく。

目的と意思に基づいた、結果を重要視したチームを構成していく。

「師匠」と「弟子」ではなく、同じ目標に向かう同志としてのチームを積み上げていく。

重要なのは結果だ。

シンプルにそれだけを評価軸にすれば、仕事はもう少しやりがいのあるものになると僕は思っている。

ドライ?

冷酷?

それで構わない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

僕はサッカーが好きなので、どんなに有能な選手であっても環境が悪ければ能力を発揮できない、というように考える傾向があります。

もちろんクリスティアーノ・ロナウドのように、どのチームに行っても活躍できるようなスーパーなプレイヤーはいますが、それは本当にごく僅かで、大抵の選手は環境や監督によって、その出来が左右されてしまいます。

会社員にもそれは当てはまると僕は考えていて、どうしようもない上司の下で力を発揮できないのであれば、移籍してしまえばいいのだ(もちろん実力があることが前提ではありますが)、と考えています。

苦労することに意味がある、という日本的(アジア的?)美学を否定するつもりはありませんが、その弊害の方が残念ながら大きくなってしまっているのが現在なのかなと思っています。

もう少しドライにやっていきましょう。