自分の価値観を押し付けない
善意は厄介
成功者は成功体験を語りたがる。
そしてそれを広めたいと思う。
若くして出世した人は自分の過去の経験を絶対的・汎用的な規範(成功の方程式)であると思ってしまうものだ。
過去自分はそれで成功してきたので、それを部下にも同じように味わって欲しいと思う。
あくまでも善意で。
でも善意というのは厄介な代物でもある。
今日は自分への戒めも含めてそんなことを書いていく。
自信満々な人達が次々と打ちひしがれていく
僕自身がマネージャーになってから結構な年数が経ったので、後輩マネージャーの指導(アドバイス)を求められることが時にある。
そんな時に思うのが、今日のテーマでもある「自分の価値観を押し付けない」ということだ。
もちろん、みんな過去のプレーヤー時代の輝かしい実績を引っ提げて、自信満々でマネージャー業務に「乗り出して」くるので、当初は僕の話に対して聞く耳を持たない人が多いのも事実だ。
ただ、数か月・数年経ってみると、マネージャー業務の酸いも甘いも経験してくると、僕の助言を求めるようになる。
正対して僕の話を聞くようになる。
色々な壁にぶち当たったのちに、僕の「マネージャー道場」の門を叩くわけだ。
「オレ流」は諸刃の剣
かつての「イキっていた」人達が、自信を無くしている様子を見ると、「やっぱりそうなったか」ということを感じざるを得ない。
それは「自分の成功体験は絶対である」という揺るぎない自信は、諸刃の剣でもあるからだ。
残念ながら、世の中の大半の人(それが部下となるわけだが)は、(そのマネージャーほどは)優秀ではない。
そして仕事に対する熱意もない。
そんな人たちに「オレ流」を押し付けても、煙たがられるだけだ。
ましてや、今は昭和ではないのだ。
僕からしたら、そんなことは当たり前のことなのだけれど、自信満々な彼らはそれに気づくことができずに、次々と玉砕していく。
部下がメンタルでやられたり(辞めたり)、パワハラだと糾弾されたり、その他様々な要因で討ち死にしていく。
僕を批判していた人で今残っている人は少ないという現実
僕のやり方を、「甘い」だの「放任」だの言っていた人たちが、消えてしまったり、自信を喪失したりしているのを見ると、マネージャーとしてアジャストしていくのは案外難しいことなのかもしれない、と思ったりもする。
「名選手、名監督にあらず」
一言でいうなら、そういうことになるのかもしれない。
なまじ自分の型を持っているだけ、それを修正するのは難しいのかもしれない。
ポリシーが邪魔をするのかもしれない。
少なくとも、それに気づくのに時間がかかる人が多い、ということは確かだ。
成果とポリシーなら成果の方が大事だ
マネジメント業をしていて思うのは、あまり強い拘りを持たない方が良い、ということだ。
もちろん芯みたいなものは持つべきであるとは思うけれど、強さというのは脆さと紙一重で、ある種グニャグニャしている方が耐性がある、というように僕は思っている。
水のように形を変えていくことが、時に重要となる。
自分の部下となるメンバーには色々な人がいる。
自分の上司となる人にも色々な人がいる。
そんな中で、中間管理職であるマネージャーは、カメレオンのように自分の様態を変えていかなければならない。
それを人はポリシーがないと罵ったりするのだけれど、ポリシーはあるのだ。
ただ、成果とポリシーのどちらが大事かと問われたら、成果であるというだけなのだ。
要するに、登頂できればいいんでしょ?
山頂に登るのに、「このルートでなくてはならない」ということはない。
天候やメンバーのレベルやコンディションによって、その登り方は様々であってもいい。
大事なのは山頂に登るということだ。
そのルートに拘りはない。
それを強制すると、滑落したり、雪崩に巻き込まれたりする。
自分の型に囚われると、そういうことが生じてしまう。
打者を抑えることが大事
単純に、僕は非人間的なのではないか、と思うことがある。
彼らのように、善意を持って、熱心に指導しようと思うことがないからだ。
僕は冷たくドライな人間であるので、手取り足取り、フォームはこうあるべきだ、みたいなことをそもそも思うことがない。
好きにすればいい、と思ってしまう。
何度も言うけれど、大事なのは速い球を投げることであって、もっと言うと、打者を抑えることであって、綺麗なフォームで投げることではない。
ルールは守らなければならない(流石にボークになったらマズい)けれど、それ以外は何でもいい。
「絶対オーバースローじゃなければならない」ということはない。
スリークォーターでも、アンダースローでも、トルネードでも、サブマリンでも、何でもいいのだ。
それよりは、「どうやったら打者を抑えられるか」に専心して欲しい。
かつて大投手であった自分のように投げる必要はないのだ。
それぞれの人にはそれぞれに合った投げ方があるのだ。
できないものはできない
もちろんアドバイスはするけれど、最終的にそれを採用するかどうかはその人が決めることである。
養成ギプスのようなものをはめる必要はない。
人によっては球速が全然出ないこともある。
そしたら緩急をつければいいのだ。
そういう人に「何で速く投げられないんだ!」と怒鳴っても、無理なものは無理なのだ。
それよりは、投球理論みたいなものを一緒に考えた方が良い。
このブログだって善意の押し売り
善意ほどうんざりするものはない。
正義ほど厄介なものはない。
つらつらと偉そうなことを書いてきたけれど(いつもか)、僕のこのブログも善意の押し付けなのかもしれないと時々思うことがある。
僕は色々なことを書いているし、それぞれが相反することも言っていたりして、統一性がないと思われるかもしれない。
ただ、大事なのは僕が言っていることを鵜呑みにするのではなく、その中で自分に合うやり方を取捨選択していくことであると僕は思っている。
あなたにはあなたのキャラクターに合ったやり方がある。
その一助になれば、幸いだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
成功者は、自分の辿ってきたルートが最適だ、と言います。
だからみんなそのルートを通るべきだ、と。
だから、そのルートから外れる他者に対して、我慢がならないようです(善意だから余計にたちが悪い)。
僕はそれをナンセンスだと思っています。
部下が自分と同じように動かないことをこの種の人は怒ったりするのですが、大事なのは同じように動くかどうかではなくて、成果を出すかどうかだと僕は思っています。
そして部下がそのように動かない(成果が出せない)のであれば、その指導方法が間違っているのではないか(成果が出ないのだし)、という風に思ってしまうのですが、そういう風に考えてしまう僕はやっぱりサイコパスなのでしょう。
振り逃げでも隠し玉でもいいじゃないか、正攻法じゃなくても(相田みつを?)。
賛同者は少ないですが、これからも僕はこのやり方で成果を出していくつもりです。
気楽に読んで頂けたら幸いです。