余白を作る

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余白を恐れる僕たち

「マネジメントとは削減することである」と僕は常々考えている。

今日はそれを一歩進めてみる。

なぜ削減する必要があるのか、と。

それは「余白を作るため」なのではないか、というのが今日の話だ。

それは、僕たち(日本人)は極端に余白を嫌う人種なのではないか、ということが念頭にある。

というのは、旅行でも仕事でもそうなのだけれど、何となく「空いた時間は埋めなければならない」という強迫観念めいたものに囚われているような気がするからだ。

これはたぶん「頑張る」ことが「尊いこと」である、という文化から生じているのかもしれない。

今日はそういう話をしてみる。

頑張っていない人は評価に値しない?

余白、であるとか、空き時間、といった言葉にどのような印象を持つだろうか?

僕の体感では、仕事というカテゴリーにおいては、どちらかというとネガティブなイメージを持つ人の方が多いような気がする。

例えば、アポイントがない、であるとか、するべき仕事がない、であるとか。

だから、何らかの仕事でその余白を埋めようとする。

なぜなら、暇そうにしていると、「頑張っていない」ように見られるからだ。

「頑張っていない」奴は評価に値しない。

だから、頑張る(仕事を作る)。

これが仕事が等比級数的に増えていく1つの要因なのではないか。

指導を「減らす」ことが部下の育成に繋がる

これは、「教える」ということにも関係してくる。

部下の育成、というと、上司が何らかの手段を用いて部下を導く、みたいなイメージを持たれる人が多いと思う。

OJTでも良いし、ロールプレイングでもいいし、1on1でもいいし、とにかく何らかの方法によって、「部下に(知識・スキルなどを)『与える』こと=育成」という考え方が染みついているような気がしている。

僕はそうではない。

もちろん上記したようなことも必要ではあると思う。

でもどちらかというと、そのような「指導」を増やすのではなくて、「指導」を減らすことの方が大事なのではないかと思っている。

指導を減らすことが部下の育成に繋がる?

そうなのだ。

それが今回のテーマでもある「余白を作る」ということである。

ラットレース

僕たちはあまりにも考えていなさ過ぎる。

それがマネージャーになってからずっと思っていることである。

もう少し厳密に言うと、僕は暇そうにしている間に色々と考えているけれど、部下達は何かに追われて(忙しそうにしながら)殆ど考えていないように見受けられる。

取り敢えず目の前の仕事を「タスク」として片づけることに心血を注いでいる、というか。

ラットレース、というと言葉は悪いかもしれないけれど、何も考えずに、ただ回し車の中を一生懸命に走っていること(頑張っていること)が美徳とされているような気がするのだ。

僕はこれに疑問を呈したい。

ちょっと走るのやめて、考えてみませんか? と。

クソ真面目さの功罪

生産性の向上であるとか、自発的な部下の育成であるとか、現在できていないことを実現させる為には、現在とは違ったことをやらなければならない。

でも、僕たち日本人は(クソ)真面目なので、現在やっていることをもっと一生懸命やろうとしてしまう。

頑張れば報われると思っている。

僕はそういうスタンスに懐疑的である。

これは何も斜めから物事を見ようとしているのではない。

冷めているわけでもない。

ただ単純に頭を使った方がいいのではないか、その方がより成果が出るのではないか、と思っているだけである。

「育てる」のではなく「育つ環境」を

では頭を使うためにはどうすればいいのか?

頭を使う時間を捻出しなければならない。

それが余白時間である。

言い換えれば、それは「環境を構築する」ということになる。

頭を使う環境を作ることが先にくるのだ。

「育てる」のではなく、「育つ」環境を作ること。

「考えさせる」のではなく、「考える」環境を作ること。

仕向けではない、矢印がこちら側からではない、イメージ。

それが成果の向上には必要である。

僕はそんな風に考えている。

想像力の掛け算

環境構築の話をすると、「放任だ!」という批判が起こる。

僕はむしろ放任で良いのだ、と思っている。

というか、それを放任だと呼ぶのであればそれで構わない、と思っている。

等直線上で「頑張る」、そうすれば報われる、という時代は終わったのだ。

大事なのは想像力であり、個々の想像力の掛け算から生じる創発性である。

物事を現在と違った視点から眺めることによって、より効率的な方法を考案すること。

より自分が面白いと思える方法を案出すること。

それこそが、生産性の向上自発的な部下の育成に繋がるのだ。

「遂行する」ことはもう仕事ではないのだ

部下と話していると、あまりの視野の狭さに驚愕することがある。

そしてそれを指摘したとしても、何とも思っていないように感じることが頻発する。

彼らにとって仕事というのは「遂行する」ことであって、そこに自分の考えを混ぜ込んだり、自分なりの工夫を行ったりするなんてことは思いもよらないものなのかもしれない。

それでも僕は常に「どう思うか?」ということを問い続けている。

彼らは空疎な顔で僕を見つめ返す。

ただの徒労?

自己満足?

それでも構わない。

1人でもそこで自分の想像力を働かせて、面白く働こうとする部下が出てくれば十分である。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

日本のサービスは素晴らしい、と礼賛する記事を時折読んだりすると、「いや、でもそれって量で補っているだけだよね」と思うことがあります。

過剰品質は誰かの(量的な)犠牲の上に成り立っている。

享受する時はそれを無自覚に礼賛し、提供する時にも「そういうものだ」と疑うこともない。

「それを少し変えたらどうでしょうか?」というのが今回のお話です。

余白を作り、「それってやっぱりおかしくない?」ということをそのままの状態で議論にできるような環境を作ること。

そうすれば僕たちの社会はもう少し生きやすくなるような気がしています。

闇雲に頑張ることや、それを美徳とすることをやめて、効率性や生産性という概念の比重を上げていきましょう。

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