プレイヤーとマネージャー
マネージャーに「なってしまった」人へ
マネージャーの中には、本意ではないけれど、マネージャーに「なってしまった」人がいると思う。
僕もその1人だ。
「なってしまった」と言うと、何か言い訳めいていて、ズルい言い方にはなってしまうけれど、事実なのだから仕方ない(と開き直ることにする)。
僕が務めている会社においては、プレイヤーとして次のステップに行く道が(当時は)殆どなくて、会社側はカッコいい言い方はしているものの、どちらかというと「小間使い」「便利屋」的な仕事になってしまう可能性が高かったので、「仕方なく」マネージャーの道を選ぶことになった。
自分がマネージャーに向いているなんて思わなかったし、それは今も変わらない。
でも、やっぱりその時プレイヤーの道を選ばなくて良かったのではないか、と思う僕もいる。
今現在その岐路に立たされている人には、もしかしたら役に立つかもしれないので、今日はそんな話をしてみようと思う。
肉体的限界と加齢
当時はそうは思わなかったけれど、プレイヤーというのはあくまでもプレイヤーである、というのが現在の僕が考えていることである。
そしてプレイ自体はマネージャーでもできる、というのが付言事項となる。
プレイヤーはあくまでもプレイヤーである、というのは、自分で叩き出せる数字には(生物的)上限があるし、加齢もある、ということに繋がってくる。
生物的上限、というのは、体力的限界と言い換えてもいいのだけれど、プレイヤーの僕は僕という1人であって、その活動限界というのはどう頑張っても24時間であって、それ以上の数字を出す為には、僕を分身させるしかない(アバターを作るしかない)、ということを最近よく思うのだ。
そしてその体力的限界は、加齢とともに減少していく。
それに抗うことは不可能である。
いや、仮想空間を駆使すれば(それこそリアルなアバターを作れば)、それは可能なのかもしれないけれど、現在の技術水準では、僕はリアルなこの僕1人でしかなくて、そこでできることにはやっぱり限界がある。
たとえそれがどんなにスーパーなプレイヤーであっても。
鵜匠と鵜
またそこには自意識が関係してくる。
自分がスーパーなプレイヤーでいるのは、単純に「気持ちいい」のだ。
ただその「気持ちよさ」は、「閉じた気持ちよさ」であるとも思うのだ。
独りよがりの気持ちよさ(俺すげえええええ的な)というか。
例えが適切かどうかはわからないけれど、スーパーなプレイヤーだと思っているのは自分1人だけで、結局のところ首に紐がついている鵜でしかない(鵜匠はそれをわかっていながら気持ちよく仕事させる為に気づいていないフリをしているだけ)、ということを僕はよく思う。
僕は夢中で魚を取っているのだけれど、それはただ「使われているだけ」なのだ。
隣の鵜より良く魚が取れることを競っていても、快感を得ていたとしても、鵜であることは変わらない。
時折のボーナスで自尊心を満たされても、そのゲームの構造は変わらない。
年老いた鵜(武力のない呂布)など誰が必要とするだろう?
使役する者と使役させられる者。
いつか僕は疲れて(メンタルもフィジカルも)、別の鵜に取り換えられる。
その時に僕はかつての栄光に縋る、尊大で自意識過剰な面倒くさいおじさん(きっとあなたの職場にもいるはずだ)になっているだろう。
年老いた鵜にできることとは?
武力のない呂布を誰が必要とするのだろうか?
そんなことを僕は思う。
プレイヤーの視野の狭さ
もちろん、当時のマネージャーになろうとしている僕に対して、今の僕がそんなことを言ったとしても聞く耳なんて持たれないだろう。
マネージャーしかできない腕のない奴の戯言など聞くに値しない、そうやって一笑に付すだろう。
そんなの勝負から逃げている奴(負け犬)の遠吠えに過ぎない、と。
でも、マネージャーを経験した現在の僕は、いま本当にガチの勝負(営業成績でもいい)を別の世界線(プレイヤーとなった世界線)に行った僕としても、勝てる自信がある。
1on1で、フィジカルでは完敗かもしれないけれど、得点数では勝てる気がする。
彼はしゃかりきになって僕を抜いて来ようとするだろう。
様々なテクニックを駆使して、僕を翻弄し続けるだろう。
でも見えているのは僕だけだ。
視野が狭い。
対して僕は彼からボールを受け取って、3Pシュートをただ淡々と決めるだけ。
ボールは綺麗な放物線を描いて、ネットが気持ちの良い音を立てる。
「卑怯だ!」とムキになってそれを止めようとする彼を、今度はワンフェイクでかわして、簡単なレイアップを決める。
僕の勝ちだ。
マネージャーをやればプレイヤーとしての腕も上がる
バスケの例えを続ける。
5on5であれば、その差はもっと歴然とするだろう。
僕はPGとして、ゲームをコントロールし続ける。
時にカットインもするし、相変わらず3Pも狙い続ける。
体力はない。
技術も乏しい。
でも僕には試合の流れを読むことができる。
そして僕のチームには個性的なプレイヤーがたくさんいる。
そいつらに良いパスを出せばいい。
プレイヤーの能力を上げる為には、プレイするだけでは限界がある。
僕はそんなことを今思っている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
プレイヤーの道を選んでスペシャリストとなった世界線を想像することが、特にマネージャーに成り立ての頃にはよくありました。
なぜこっちの道に来てしまったのか、という後悔と共に。
でも、数年間のマネージャー経験を経て思うのは、懐の深さみたいなものが生まれて、営業マンとしても格が上がったのではないか、ということです。
もちろんそこには、マネージャーの道を選んだ自分を肯定したいという気持ちがないとは言い切れません。
そしてそうではない世界線にいる自分に思いを馳せることが無意味であることも事実です。
ただ、それを差し引いたとしても、今の僕は今の僕に自信を持っています。
「人を動かす」能力が格段に違うので。
勘違いしたまま、調子こいたまま、これからもマネージャー業を頑張っていこうと思います。