会社は学校ではないし、マネージャーは教師ではない
他責と受動
会社を学校のように、マネージャーを教師のように考えているメンバーは多い。
実際にはそう考えてはないのかもしれないけれど、マネージャーである僕からはそう見えるのだ。
受動性というか。
他責的というか。
その会社で働くことを選んだのはその人で、その環境を変えることもその人の自由意思でできるのに、二言目には「会社がー」とか「マネージャーがー」とか言うのは僕にはナンセンスであるように思える。
会社は給与を払って従業員を雇っている訳で、それに見合う仕事は最低限しなければならない、と僕は考えているけれど、どうやら多くの人にとってはそうではないようだ。
ただ、そのような(ある種牧歌的な)時代はもうすぐ終わる。
今日はそんな話をしていく。
給料を貰うということの意味
サラリーマンと言えど、プロフェッショナルの意識を持って仕事に取り組むべきである。
僕はそんな風に考えている。
学生時代と違って(というか、学生時代もきっとそうなのだろう)、我々は与えられる側ではなく、与える側になったのだ。
そこにはその人を雇う意味が必要となる。
もう少し有り体に言えば、価値を出すとか、バリューを出すとか、そんなことが必要となる。
それを意識していない人があまりにも多すぎる。
もちろん、プロフェッショナルとしての意識を持ち、最大限の努力を以てしても、成果が上がらないということは往々にして起こりうる。
でもそれはそれとして、その結果を真正面から受け止めるべきなのだ。
そして次へ向かうべきなのだ。
芸能人なら簡単にわかること
もう少し精神面というか心持ちの話を続けると、仕事というのは、オファー(依頼)に対して、最低でもその水準で応える、でもできればそれ以上の水準で返す、ことの連続で成り立っているものなのだと僕は考えている。
芸能人の仕事はよくわからないけれど、ある種の役割を求められてその人は番組に呼ばれる訳だ。
そしてそこでのパフォーマンス如何によって、次の仕事が入るか、なくなってしまうか、が左右される。
もちろん事務所の力関係であるとか、その他諸々の要因はあるだろう。
でも、期待水準に届かないことが続くのであれば、その人は番組には呼ばれなくなるだろうし、いつしか画面からも消えていくだろう。
収録時間内に、ただそこに座って、何も話さないのであれば、その人を呼ぶ意味はないのだ(その人を呼ぶ対価もかかっているわけだし)。
当たり前の話である。
でもそれが会社員となると、途端にそうではなくなるようである。
漫然と、それこそ学校に通うように、ただデスクに座り、一日を過ごすことで給与を得ようとする人が大半である。
また、自身の状況が不遇であるのは、会社やマネージャーが便宜を図ってくれないからだ、と考える人も物凄く多い。
最終的には自分で受け入れるしかない
厳しい言い方にはなるけれど、それは自分で蒔いた種なのだと僕は思う。
もちろん、人の巡り合わせによって不遇な立場に追いやられることは、組織に所属している以上、誰にだって起こりうる(僕だってそうだ)。
ただ、それはある種受け入れるしかないのだろう、と僕は思う。
もちろん忸怩たる気持ちがあることは理解できる。
でもそれにいつまでも拘泥していてもなにも変わらない。
次へ進むしかないのだ。
成果主義が上手くいかない本当の理由とは?
日本では成果主義が上手くいかない、ということがよく言われる。
「本当なのだろうか?」と僕は思う。
「それは本当の意味での成果主義が実践されていないからなのではないか?」
余計な温情や、慮りや忖度は不要である。
好き嫌いも論外。
期待される水準をどれだけ上回れるかどうかが仕事の対価となる。
簡単なことだ。
個人事業主ならみんなやっていることである。
上手くできなければ仕事がなくなる。
ただそれだけの話だ。
言い訳はわかる。でも結果は自分で引き受けなければならない。
それはサラリーマンだって一緒だと思う。
変な平等感がまかり通っているように僕は感じている。
それはもちろん会社側にも大きな要因があるのだろうし、それによってやる気を失ってしまっている、それも理解できる。
ただ、そのやる気のない状態を続けて、低パフォーマンスを続けた結果を引き受けるのは、他でもないその人なのである。
もう少し言うと、その組織内でどうやっても不遇であると感じるなら、組織と個人というのは契約関係でしかないので、個人の側で対処すればいいだけの話である。
例えば転職をするとか。
「いやいや、家族がいて転職は無理です」とか「年齢が高いので」とか「転職市場が未整備なので」とか、そのような話もよくわかる。
でもそれならそれで、組織内で高いパフォーマンスを出すしかないのではないか?
自分の人生だ。そうだろう?
僕が感じるのは、自分の人生の舵取りをするのは自分しかいない、ということなのだ。
そしてある方向性を選択したのであれば、その責は自分で負うしかない、ということなのである。
厳しいだろうか?
もちろん理不尽なことはたくさんある。
それは僕だってたくさん味わっている。
でもそのようなものを剥ぎ取っていった時、全ての言い訳を取り除いた時、そこにいるのは裸の自分である。
その自分がどう思うか?
その本性に従うしかないのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
不満を言えば、周りが何とかしてくれる(orしてくれるべきだ)と思っている人がとても多いと感じています。
まあマネージャーなので、その責任の大半はもちろん僕にありますが、そのような不満を述べる人が完全に無罪であることはない、とも思ったりします。
少なくとも一部は共犯関係にある、と。
同じ職場、同じ環境で働いている以上、その人もその職場環境を良くするべく何らかのアクションを取るべきです。
でもそのリスクを取ることなく(返り血を浴びたくないから)、表面上そつなくこなそうとしている人が僕は一番ズルいように感じてしまいます。
権利と義務。
市民と自治。
同じような悩みがあるマネージャーがいるなら、僕もその1人です。
大変ですが、頑張っていきましょう。