部下の評価の付け方
評価の基準となる「普通」とはどのくらいのことを言うのか?
マネジメントの仕事の中で重要なものの1つに部下の評価がある。
僕は営業の課長なので比較的簡単な方かもしれない。
営業成績が数字として客観的に現されるからだ。
でもいつも悩む。
どこを「普通」という基準にするのかということに。
半期毎に部下の評定を付けるとする。5段階評価で。
これがなかなか難しい。
学校での成績表を思い出して欲しいのだけど、5が最良、1が最低とする。普通は3だ。
以前、「2・6・2の法則」(僕の場合は1・7・2の法則)で書いたことを適用すると、営業成績だけで考えるのであれば、5は1人、4か3が7人、2か1が2人という感じになる。
でも、暗黙の了解として、1は付けちゃいけないようになっている(ようだ)。
そうすると、実質的には5から2の間の4段階で評価することになる。
この場合、普通というのはどこになるのか?
いつもここで悩む。
5段階評価では3が普通? それとも4が普通?
算数的に言うと、3.5が真ん中になるわけだけど、小数点での評価はできない。
それこそ「食べログ」ばりに細かくつけられるのであれば、もっとやりやすくなると思う。
君は3.8、君は3.2というように。
でもそれはできない。
そうすると途端に難しくなる。
悩むのは「普通」とした7人のところだ。
7人を3か4に割り振らなければならない。
4に近い人は比較的簡単だ。
問題は3に近い人たちだ。
体感的には2.5~3.4くらいの人たちがここに含まれる。
正直言って、この辺の人たちの営業成績はあまり変わらない。どんぐりの背比べだ。
その時に何を基準として3とするのか、はたまた4にするのか、僕はいつも頭を抱える。
部下に下駄を履かすのはマネージャーとして「当たり前」のことなのだろうか?
いっそのこと10段階評価にでもしてくれれば、だいぶやりやすくなるのだけれど、下が切られているし、これは本当に難題だ。
先ほども書いたように、学校の成績では4は良い方だ。
でも僕の体感的にはその部下の評価は「いやいや、4と言えるほどの成績じゃないんだよな…」と思っている。
こういう場合にどうすべきなのか?
大半のマネージャーは、「そんなの良い成績を付けてあげればいいじゃないか」「部下を出世させるのもマネージャーの大事な仕事だろ」と言うと思う。
この「当たり前」の言説にいつも僕は疑問を感じる。
確かに部下に良い評価を付けることはとても重要だ。
でも、「下駄を履かす」のはちょっと違う気がする。
多少の「背伸び」は問題ないけれど、多くのマネージャーはむしろ「竹馬に乗せている」くらいの感じがするからだ。
横並びの評価軸が無能なマネージャーを生んでいるのではないのか?
もちろん部下が出世することを僕も望んでいる。
その為に日々全力を尽くしている。
でも、半年を経た結果が、明らかに自分の判断軸からすると物足りない場合でも、そうすべきなのだろうか?
自分のことを棚に上げて言うけれど、ちょっと良くつけ過ぎなんじゃないかと、僕は思っている。
それによって、本当に偉くなるべき人が埋もれてしまっているように感じている。
僕は日本的経営の手法をどちらかといえばポジティブに考えている。
どの階層にいる人も一生懸命に仕事をし、「カイゼン」を行い、それが全体の力になっていく、それは本当に素晴らしい所だと思う。美徳だと思う。
でも「いいね、頑張っているね」が過剰になりすぎた結果、どうしようもないマネージャーが増えてしまった。
乱造されてしまった、そんな気がしている。
自分のことを棚に上げて言うけれど、マネージャーの中には、明らかに仕事をしていない人がたくさんいる。
きっと良い評価を得てきた人たちなのだろう。
でも、傍から見ていると、「本当か?」と僕は辛口の評価になってしまう。
「結局、組織的には劣化していないか?」と強い言葉になってしまう。
尖った評価をつけるのは難しいけれど…
もちろん、相対的に仕方がなかったのだろう、とは思う。
他の人たちはそもそもその水準にすら達していなくて、マネージャーになった人はそれでも組織の中では優秀な人だ、という評価なのかもしれない。
それでも、違和感を僕は感じる。
自分が評価者になってからこの違和感はより増した。
でも、同時にその構造も理解した。
そもそも、差を付けづらい、ということに。
僕は素晴らしい成果を上げた人に、素晴らしい、という評価を付けたい。
そこに忖度も情状酌量もなくて、正直にそういう人を評価したい。
プロとして、結果は結果なのだから。
だからといって、すべて数字ではないことも十分に理解している。
雑用をやらなかったり、面倒事は他の人に押し付けたり、そういう部分も加味した上の話だ。
「みんな一緒」「波風立てないよう」「横断歩道は手を繋いで」「運動会も…」みたいな風潮は昔は良かったのだろうと思う。
でもこれだけ世界が繋がっている現在で、競争が激しくなっている世界で、もうそれは通用しないのではないかと僕は思っている。
「出る杭は打たれる」とか言っている場合ではないのではないか、と思っている。
横並びの人達、顔色を伺う人達、リスクを取らない人達、同じことしか言わない人達、こういう人ばかりがマネージャーになっている(きっと僕もそうなのだろう)。
僕はそれじゃいけないと考えている。
真っ当な人を真っ当に評価できるような仕組みを
なので、3と4でいつも迷う。
というか、もっと言うなら、明らかに1とか2の実績の人には1とか2を付けたい。
その代わり、一生懸命やった人には10でも100でもつけたい。
妬みややっかみや同調圧力や、そんなことを言っている場合ではないのではないか、と僕は最近思っている。
下らないことで足を引っ張ったり、イジメたりしている場合ではないのではないか、と本心から思う。
内部での言い争いに何の価値があるのか?
市場価値とかそんな大層な話ではなく、もう少し絶対的な基準でオープンに評価できるようになれば、組織は少しは良くなるのではないかと感じている。
生意気なやつも、尖ったやつも僕は大歓迎だ。
そこに論理性や意思があれば、僕は好きにやらせる。
そのやり方で結果を出せれば、僕は何も言わない。
尖った人材は組織上必要ないのかもしれない。
その方が組織は円滑に回るのかもしれない。
でもね、と僕は思っている。
だから日本の組織は停滞しているんじゃないか、と僕は生意気なことを思っている。
そんなことを思いながら、僕は今も評価付けで悩んでいます。
それでは、また。
いい仕事をしましょう。
編集後記
人の評価は本当に難しいです。
これは教育制度とも関係していると思うのですが、日本の社会では均質であることが尊ばれることもあり、「外れ値」をつけるのはとても勇気がいります。
ある種の同質性が日本組織の強みではあったと思いますが、悲しいことに時代はどんどん変わっていて、粒の揃った人材だけでは戦えなくなっています。
尖った人材は尖っているがゆえ、組織的には制御が難しいのですが、そういった人達(異端児達)をうまく活用していく方法はないものか、と最近は考えています。