暑すぎず寒すぎず

部下とどのくらいの距離感で接するのが望ましいのか?

現代のマネジメントにおいて重要なのは「温度調整」だ。

という、また訳の分からない出だしから文章を始めてみる。

温度調整、というのは「関与度合い」と言い換えれば分かり易いかもしれないが、部下とどのくらいの距離感で接するのが望ましいかを適宜調整することが大事である、というのが今回の話の趣旨である。

書いてみると当たり前のことを言っているように思える。

でも、これが上手にできるマネージャーはそんなに多くない。

特に部下と歳が離れていて、距離感を感じている方にはぜひ読んで頂きたい。

それでは始めていこう。

仕事は人生の一部でしかない

昭和の時代に比べて、令和の時代は冷めている。

これをまずおじさん世代のマネージャーはきちっと認識すべきである。

「冷めている」は「醒めている」とも同義で、会社や仕事というものに対して、昭和世代の人間達よりももっと距離を置いて捉えているのである。

仕事というのは人生の一部でしかない。

そこに全精力を傾けるというのはどうかしている。

こういうスタンスをまず理解しておく必要がある。

言っている本人たちが楽しそうでも幸せそうでもない事実

僕が自分より上の世代のマネージャー達と接していてよく思うのが、このギャップをイマイチ理解していないということである。

彼ら(彼女ら)はなぜ現代の若手たちが熱を持って仕事に取り組まないのかが理解できないように見える。

一様に彼ら(彼女ら)は若手を指して「やる気がない」と言うのだけれど、僕からするとそれはやる気がないのではなく、「やる気になるような論理性がない」という方が適切な表現であると思う。

両者の間にいる(谷間の世代である)僕が思うのは、仕事というものに対する価値観が大きく変わってきていて、「なぜそれをやるのか?」という「意味」を求める時代になってきている、ということである。

その際に、おじさん世代の言う地位や名誉や処遇というものはインセンティブとはならない。

もう少し言うと、そう言っているおじさん世代の働いている姿が少しも楽しそうに見えない、成功していると自称している人達がちっとも成功しているとは思えない、というところにこのギャップがあるのだと思う。

逃げ切る為に社会の部品として働くこと

それは僕から見ても同様である。

己を殺すことは社会で生きていく以上必要なことではあるけれど、滅私奉公というくらいまで己を消すことは果たして有効なのだろうか、と僕は思う。

個を消すということは、無個性ということと同義で、代替可能なパーツであることを自らが主張してしまっているように僕には思えるのだけれど、ある一定年齢以上の世代はそうは思わないようである。

そして彼ら(彼女ら)がそこまでして果たした社会的上昇というものは、移り行くこのビジネス環境においてはすぐに陳腐化してしまう可能性が高い。

それを彼ら(彼女ら)は理解した上で発言をしているのだろうか?

それとも自分達は「逃げきれる」と思っているのだろうか?

この辺に僕は「温度差」を感じるのだ。

甘くはないぜ?

一方で、若手世代があまりにも冷め過ぎていることにも僕は危機感を感じている。

というよりも、醒めていてもいいけれど、それと努力をしないということは同義ではないよ、と思うのである。

世の中はそんなに甘くない。

そして、若い世代にもシャカリキになって努力している人はたくさんいる。

それを脇に置いておいて、何の努力もなしに、望ましい仕事、「いい仕事」ができるはずかないことは、きちんと理解すべきである、と僕は思う。

口を開けて待っているだけではエサは食えない

確かに社会には「クソ仕事」が溢れている。

でもその「クソ仕事」をしなくてもいいようにするためには、何らかのエクスパティーズは必要であると思う。

そしてそれは一朝一夕で身に付くわけではない(よっぽどの天才は別として)。

この辺の現実の捉え方が浅はかであるように僕には思えるのだ(杞憂ならそれで構わない)。

どっちもどっち

日々仕事をしていると、上と下のこのギャップを感じることが多い。

暖流と寒流は交じり合わないし、良い漁場となる訳でもない。

もちろんこんな話はいつの時代も繰り返されてきたことなのかもしれない。

「近頃の若いもんは」的な話はそれこそ巷に溢れている。

でも、その間にいる僕としては、どっちもどっちだよね、と思うのである。

意味や文脈、物語が求められる時代に、おじさん世代の言うようなことは何の足しにもならない。

一方、若手たちが言うような理想だけではメシは食えない。

僕はその間にいる。

適温な働き方とは?

夏よりも冬よりも春が好きで、脂ぎった熱さは鬱陶しくて胸やけしそうで、でもあまりにも冷たいと頭が痛くなりそうで。

経済成長やGDPや生産性なんてものに意味を見出せなくなってきている時代に、その中で生きながらえる為だけのクソ仕事をする虚しさに、そこから目を背けて享楽的に今を生きる浅慮に、クラクラと目が回りそうで。

暑すぎず寒すぎず。

適温な働き方はどこにあるのだろうか。

会社への忠誠心などとうに失せて、でもジョブホッパー的な動きには嫌気がさして。

そうやって翻弄されながら、僕はまた今日も仕事にいくのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今日の話はエンゲージメント論と関係していて、ある種の社会的な物語が機能しなくなった後に、それに代わる「新しいお話」が展開されていないことがその低さの要因である、そんなことを考えています。

戦後復興と高度経済成長の物語がなくなってしまった後、「ポスト」の時代に、僕たちを騙してくれる「新しい物語」とは何なのだろうか?

それは1人1人がアノミー的に見つけていかなければならないのだろうか?

そんなことを考えながら、僕は仕事をしています。

「ニューノーマル」なんてものはきっと論外で、というか「ノーマル」という発想自体がもうおかしくて、ただ「分かり易い成功イメージ」みたいなものは欲しくて、でもその尺度がカネやSNS的なものであるのはあまりにもさもしくて、そんなことをグルグルと考えています。

暑いものでも寒いものでもない適温な働き方。

何かアイディアがあったら教えて頂けたら幸いです。