正解主義とマネジメント
物事には正解があるものであると考える態度
物事に正解というものはあるのか?
そんな哲学的とも言えるような問いから今日は文章を始めてみる。
というのも、あまりにも正解主義的な論調が会社の中に充満しているような気がするからだ。
そしてそれが時代適合的ではないことも。
正解主義とは、「物事には正解があるものである」と考える態度、とここでは定義をする。
この文章だけ読むと、「まあそうなんじゃないですかね?」と思う人も多いと思う。
でも、本当にそうなのだろうか?
ましてや、この令和という時代に、「正解」なんてものはあるのだろうか?
僕はそこに疑問を持っている。
訳が分からないかもしれないけれど、とりあえず始めていく。
コスパ思想みたいなもの
マネージャーという仕事をしていて、たくさんの部下と接する中で、僕が覚える違和感は、「物事には正解というものがあって、そこに最短ルートで向かうことが正しい態度である」というような考え方である。
もちろん概念としてはよくわかる。
そしてそちらの方向に向かいたい気持ちというのも理解できる。
ただ、あまりにも安直過ぎないか、とは思うのである。
サイクロイド曲線を持ち出すまでもなく、ある程度遠回りした方が、結果的には早く着く(もしかしたら遠くまでも行ける)、そのように感じるのだ。
検索速度能力って有用なのか?
これは秀才という概念にも近いのかもしれない。
僕から見える「自称仕事のできる人たち」は、正解を最速で探すことに長けている。
これは「検索が早い」ことに近いイメージである。
ただ、これは現代においてはそこまで有用なスキルではない。
というのは、誰だってグーグルを使えばそこに辿り着くことができるから(多少の速い遅いの差こそあれ)。
その検索が脳内で行われるか、検索エンジンで行われるか(もしくはその組み合わせか)に過ぎないのである。
もっと言えば、これは脳内なり、検索エンジン内に「正解」があることを前提としたものである。
これが冒頭の疑問に繋がってくる。
物事に正解なんてものはあるのか?
それは一面から見た主観的感覚に過ぎないのでは?
そう思う時があるのである。
何度もそれで痛い目を見ただろ?
何か新しいプロジェクトを立ち上げる際、この正解主義に基づいて話を進めると痛い目を見る。
そんなことはこの令和という時代に仕事をしていれば、嫌というほどわかる話であると思う。
でも、正解主義者たちは正解を求めてやまない。
何らかの絶対的な解があるものと仮定して話を進めていく。
正解原理主義者から見える世界
いや、わからなくはないのだ。
マーケティング的な概念のように、何らかのペルソナを作り、そこに向けてプロジェクトを進めていくという考え方は、何もない荒野から話を進めるより有用であるのは、その通りだろう。
でも、それは不確定というか、変動があるものであるということは、当然頭に入れておくべきことであると思う。
だから、アジャイル的に、その時々に得られたフィードバックを基に、こちらの行動を変化させていく必要が生じる訳である。
でも、正解主義者たちは、当初想定した正解から逸れることに異常な抵抗を見せる。
そして、その正解に合わせるようなデータばかり持ってくる。
不正解であるものを、無理やり正解にしてしまうかのように。
間違いを認める態度
これは「間違いを認める態度」という概念にも繋がってくるのかもしれない。
秀才たちは間違いを認めることを極端に嫌うから。
昭和ではそれでよかったのかもしれない。
でも、令和ではそれは通用しない。
有能さの無駄遣い
僕は失敗というのはただのデータ採取に過ぎない、という考え方を持っている。
それはただのフィードバックの一種に過ぎない。
そんなに大層なものではない。
というか、そういうものだろう、くらいの感覚である。
でも、正解主義者たちはそれを物凄く重要なファクターだと思い込んでいる(ように見える)。
そして、意に沿わないデータが生じた際に、それを如何にしてなかったものにするか(もしくは自分たちが向かいたい方向に資するデータだと思わせるか)にリソース注ぎまくっている(ように見える)。
そんなの無駄じゃない?
僕はそう思うのである。
最短距離をカイゼンしながら進むことで僕たちは成功してきた
ただ、そういう正解主義者たちがこの世の中にはたくさんいる。
それは日本がずっと世界にキャッチアップすることで成功してきたことと無関係ではないだろう。
正解がある世界において、日本はずっと正解し続けてきた。
「カイゼン」というのは、僕らのお家芸でもある。
他の国々が試行錯誤を続ける中で得られた知見を、僕たちは後から拝借して、それをアレンジして最短距離を進む。
それが成功の秘訣だった。
でも、それはもうないのだ。
正解はなくなったのだ。
でも、そのような思考習慣を持った人が大勢を占めている。
そりゃ凋落するわけだ。
アジャイル型人材の育成
大きな枠組みを変えることはできない。
でも、現場のいちマネージャーとして僕ができるのは、失敗なんてデータ採取に過ぎない、という考え方を持つ部下を増やすことである。
どんどんアップデートしていけばいいじゃないか、と考えられる人材を輩出することである。
そこにマネジメントという仕事の未来はある。
僕はそう思っている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
不正解を極端に恐れる人たち。
そういう人たちはChatGPTを前にして嬉々としているのかもしれません。
ChatGPTのご宣託に、それに従うことに、快感すら覚えるのかもしれません。
と同時に、あからさまな嘘に簡単に騙されていることに気づきもしないのでしょう。
テストでの高得点。
記憶したものを効率的にアウトプットする能力。
そんなものいらんのでは?
でも、僕たちは知性というものを、そういう形でしか評価できません(できないと思っています)。
コードは知性なのか?
僕にはよくわかりません。
ただ、そっちの方に行くなら、コンピューターに勝てないことは明白です。
生物として、身体を持っていることの利点(例えばフィードバック機構)を活かしていきましょう