無知でいることは許されるのだろうか?

UnsplashElimende Inagellaが撮影した写真

自ら学ぼうとしないことは、それだけで罪であるとは言えないのだろうか?

ここ最近始まったことではないけれど、「教えて貰っていないからできない」という人がいる。

また、そこから一歩進み、「教えていないそちら側が悪い」というスタンスを取る者もいる。

このような姿勢。

そして言われる側も、何だかそれを了承しているような事態(渋々ながら、かもしれないけれど)。

僕はこれに疑問を持っている。

これは何も会社における問題だけではない。

無知である(あろうとする)こと。

無垢である(あろうとする)こと。

それによって、被害者の立場で居続けようとすること。

百歩譲って、本当に新人というか、その分野における経験が浅い人であれば、まあ許せなくはない。

ただ、それなりの経験を積んだ人、何ならベテランと言われるくらいの人ですら、このような姿勢を取ることに、僕は嫌気がさしている。

自ら学ぼうとしないことは、それだけで罪であるとは言えないのか?

今日はそんな愚痴めいた話をしていこうと思う。

被害者ポジから物事を優位に進めようとすること

被害者面。

これが現代のキーワードであるような気がしている。

そしてそのポジションから議論を有利に進めようとする姿勢。

まあわからないことはない。

そうやって実際に利益を得られることもあるのだろう。

ただ、その被害者的ポジションの人は何もしないでいいのだろうか、と僕は思うのである。

確かにこちら側にも不手際や怠慢や過失があったのかもしれない。

でも、だからと言って、そちら側は何もしないでいいのだろうか?

それなりの歩み寄りというか、自助努力というか、そういったものはしなくていいのだろうか?

僕にはこれがよくわからない。

ラディカリズム?

それなりの社会経験と処遇。

それを得ながらも、このような姿勢を貫く人はとても多い。

そして、その上司(や会社)も、何となくそれを許容しているような気がしている。

まあ確かに、そこに正面からぶつかっても得るものがないことは僕だってわかる。

ただ、それならそれで、処遇を下げるなり、降格させるなりできないものなのだろうか?

日本社会ではもしかしたらラディカルだと言われるような話。

それって本当にラディカルなのだろうか?

コスパ思想

これは相対的優位みたいな話にも繋がってくるのかもしれない。

もっと言えば、コストパフォーマンスみたいなことなのかもしれない。

自助努力をして処遇を向上させるよりも、その努力をせず、現状のまま、批判者であり続けることの方が、得られる相対的利得は多い。

そのような皮算用。

そして実際の損益。

これが多くの人にそのようなポジショニングをさせる要因になっているような気がしている。

これを変えなければならないのではないか?

合成の誤謬で出来上がったこの社会がいいの?

僕はこのブログの開設当初から成果主義を主張している。

もちろん、成果主義には(特に日本における成果主義の歴史には)多大な問題点があることは事実である。

ただ一方で、現状維持というのもそれはそれでマズいのではないかと僕は思っている。

それは今日のテーマのような人が結果的に得をするような社会が生まれてしまっている(と感じる)からである。

最近書いた「管理職罰ゲーム論」もそうだけれど、責任を負おうとする人や成果を上げようとする人、今回の話で言えば、自己研鑽を積もうとしている人よりも、何もせず、被害者の立場のまま、利益を得ようとしている人の方が報われる社会ってどうなのだろうか、と僕は思う。

もちろん、個人単位で言えば、それは「正解」と言える行動なのかもしれない。

ただ、その個人の正解が積み重なった結果、出来上がったのが「この社会」である。

そこで前向きに努力しようなんて思う人がいるだろうか?

素晴らしき平等化社会

日本社会は平等を重んじる。

「みんな一緒」であることを尊いことだと思う。

それはそれで社会の安定に寄与していることは間違いないだろう。

でもだからと言って、このままでいいのだろうか?

ロスト? スポイル?

無知でいる人、無垢であろうとする人、被害者面の人達。

失われた(lost)自分。

それを強要する社会。

そこからの奪還を目指すムーブ。

まあ言いたいことはわからないではない。

誰だってそのような気持ちはあるだろう。

でも、あまりにもさ、と僕は思う。

そういう人たちと仕事をすることに、物凄い徒労感を覚えることがある。

もう少し調整つまみを

僕は前向きに仕事をする人が、それなりに報われる社会を展望している。

もちろん、その「報われ度合い」にはグラデーションがあるだろう。

ただ、現状はその度合いが低過ぎるように感じている。

そして、被害者面をする人たちのコストパフォーマンスが良過ぎるように感じている。

この傾斜をもう少し変えないか?

処遇を下げることに抵抗があるなら、前向きに仕事をする人にもう少し報いることができないのか?

努力が報われると(幻想でも)信じられる社会へ

結局のところ、どう生きるかは個人の自由ではある。

でも、その個人の自由の累積によって、前向きに努力することが何だかアホらしくなってしまう人が出てしまうことは、やっぱり良いこととは言えないのではないだろうか?

「努力が報われる」なんてのは空論。

でも、多少はそう思えるような社会の方がいいじゃない?

僕はそう思うのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「知らないことが強い」という構造。

僕にはよくわかりません。

それはただ教養がないだけでは?

努力をしていないだけでは?

そう言うと方々から批判を浴びそうですが、無知を恥ずかしいと思わない社会はやっぱりどこかおかしいのではないかと僕は思っています(もちろん、情報の非対称性等の議論を前提とした上で)。

少なくとも、前向きに努力を続ける者が現状よりも報われることを僕は願っています。

賛同は難しいかもしれませんが、引き続き読んで頂けたら幸いです。