当事者意識がない職場

UnsplashBenjamin Childが撮影した写真

「それは私の仕事ではない」と考える人の激増

当事者意識の低下。

ここ数年で感じることの1つがコレである。

ジョブ・ディスクリプションの広がりが影響しているのかはわからないけれど、「それは私の仕事ではない」と考える人が激増しているように感じている。

そして、それは若手だけではなく、管理職にもたくさん存在している。

もちろん、あらゆる仕事に対して当事者意識を持ちなさいというのは無理な相談であるし、ある種間違ってもいる。

でも、あまりにも当事者意識がないのも、それもそれが職場の大多数を占めているのも、だいぶ問題だよね、と僕は考えている。

正直者が馬鹿を見る職場。

それが当事者意識がない職場の特徴である。

今日はそんな話をしてみようと思う。

コスパ思考と静かな退職

「業務領域をできるだけ狭めて、その中でリスクの少ない仕事だけをやる」

そのようなコスパ思考。

それが最近のトレンドであると僕は考えている。

これはある種「静かな退職」の一環なのかもしれない。

そして、そのような考え方に僕は共感を覚えていないと言ったら嘘になるのも事実だ。

当事者意識がない方がむしろ良いのでは?

FIRE論もそうだと思うけれど、仕事に対して情熱を傾け、どんどん上昇していくことが良いことだ、という考え方には、僕は一定の距離を置いている。

どうやら偉くなることはあまり楽しくなさそうだし、その責任と処遇のバランスも悪そうだし、そもそも自分の努力ではどうにもならない要素も多分にありそうだし。

これは管理職罰ゲーム論や、配属ガチャみたいな話にも関係してくる。

管理職は罰ゲームに過ぎない。

そして仕事が楽しいか否かというのは運の要素に過ぎない。

となると、みな何をモチベーションにして働いていくのだろうか?

というか、当事者意識を持つ意味があるのだろうか、という疑問が湧いてくる。

むしろそんなものがない方が、スムーズにこの世の中を渡っていけるのではないか?

そんな風に考える人が増加(急増?)しているのだろう。

テキトーに働きたい(けど働けない)

繰り返しになるが、僕はそのような考え方に共感する。

ただ、自分ではできそうにない。

そして、そのような自分が嫌でもある。

多くの人のように、仕事に対して当事者意識を持たず、できるだけコスパ良く、ある種テキトーに働いていきたいと頭では考えている。

あまりにも下らないことが多すぎるから。

そんな状況の中で、奮闘しているのはバカらしく思えてくるから。

「じゃあ、お前もテキトーに働けばいいじゃない」

そう自分に言い聞かせる。

でも、それがどうしてもできない。

そんな自分に嫌気がさすのだ。

自己満足に過ぎないものだが…

僕は「ダサい仕事をしたくない」という謎の頑固さを持っている。

それが誰の為なのか、何の為なのか、よくわからないけれど、どうしてもそれが捨てきれない。

クソの役にも立たないものが纏わりついている。

結局は自分のプライドを満たしたいだけのもの、自己満足に過ぎないもの、を後生大事に持ち続けている。

だからきっと、他者に当事者意識がないことにイライラするのだろう。

勝手に憤っているだけ

でも、そんなものは勝手にこっちが考えているだけであって、あちらはあちらの都合があって、それもある種納得的な理由であるからして、そこに対して一方的に腹を立てるのはお門違いなのではないか、と自分でも思う。

別に悪いことをしている訳ではないし。

ただ単純に当事者意識がないだけなのだ。

そして、もしそのような状態に憧れを抱いているなら、明日からでもそれは始めることができるものでもある。

やらないのはただ僕がそれを選択しているからに過ぎない。

それはわかっている。

でも、どうしても、僕にはそれが許せないのだ。

そして、なぜそれが許せないのかもよくわからないでいる。

論理矛盾

僕は出世したいとは考えていない。

今以上の処遇もいらない。

となると、なぜ当事者意識を持つ必要があるのか、と自分でも思う。

そんなものすぐに捨ててしまって、テキトーに仕事を行い、プライベートを充実させたらいいじゃないか、というのが論理的には整合的であるだろう。

実際に、多くの人はそのような選択を行っているようだし。

となると、ただの独り相撲ではないか、ということが頭をもたげてくる。

天使と悪魔(悪魔の勝ち!)

なぜ「いい仕事」をしなければならないのか?

「そんなもの捨てちまえよ」

頭上の天使はとうに去り、悪魔が耳元でずっと囁き続けている。

そして、実際のところ、僕はその声が正しいものだとも思っているのだ。

悲しきモンスター?

翻って実際の行動。

僕は当事者意識を持つべきだという振舞いを変えないでいる。

当事者意識がない他者にイライラし続けている。

論理的不整合な状態を維持し続けている。

それが僕にはよくわからない。

どう見たって割に合わない。

正直者が馬鹿を見ることは明白ですらある。

でも、道化のように、僕はそこで踊り続けている。

哀れなピエロ。

悲しきモンスター。

それが他者から見える僕なのかもしれない。

合成の誤謬(だからどうした?)

「なぜ当事者意識を持つ必要があるのか?」

「あの人は時代錯誤だ」

それはきっと正しい声明だ。

でも、個人としての正しい選択と、全体としての正しい選択は異なる。

合成の誤謬。

そうやって日本は沈んでいっているのだろう(それがどうした?)。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「当事者意識を持つべきだ」と僕は考えているのですが、書いている内に「なぜ当事者意識を持つ必要があるのか」がわからなくなってしまい、最終的におかしな文章になってしまいました。

ただ、最後にも書いたように、合成の誤謬(個人としての最善の行動が、全体最適になるとは限らない)が、最近の日本の取り巻く環境を説明するワードなのかなと考えてもいます。

自己責任論から生じる(自己責任論へのカウンターとしての)自己利益を最大化する為の行動。

それのどこが悪い?

ただ同時に、自己利益を最大化するばかりの人がたくさんいる社会って生きづらいよな、とも思ってしまいます。

結局僕たちが生きているのは、囚人のジレンマのゲームにあるように、皆が相互に他者を出し抜くのではないかと疑心暗鬼になった結果、効用が1番低い状態になった世界なのかもしれません。

それを打開する為には、自己利益を最大化しようとする行動が、自己利益を最大化することに繋がらない社会を作る必要があります。

まだ結論は出ていませんが、その解の1つが前回も書いた「ちょっとした親切」なのではないかと僕は考えています。

引き続き読んで頂けたら幸いです。