部下を「メンタル離脱」させないために
ついて来られないのは部下が原因?
マネージャー同士の集まりの中で、参加者の1人が「部下なんて使い捨て」というような発言をしていたので耳を疑ったことがある。
それも「いかにもパワハラ系」という人ではなく、どちらかというと温和そうな人物であったので、その驚きの度合いは大きかった。
その人の言い分をよく聞いてみると、「出来の悪い部下はそいつ自身に原因があるので、ついて来られないのであればこちらとしても強く出るのは(その結果辞めてしまっても)仕方がない」ということであった。
「そうじゃないと、こっちがやられてしまう」と。
実際にその部下の日々の仕事ぶりを見ている訳ではないので、その部下がどの程度「ダメ」なのか僕にはわからない。
そして、実際にマネージャーを経験している身として、その言い分がわからないでもない。
本当にどうしようもない部下はいる。
でもさ、と僕は思う。
もう少しやりようはあるのではないか、と。
肥大した自意識を抱えた受動的な若い世代
特に若い社員と接していて思うのだけれど、彼らは理想の自己像と現実の自分とのギャップがかなり大きいので、少し仕事で躓いたりすると、「ああ、もうダメだ…」とメンタル的にやられてしまうことが多いような気がする。
僕からすれば、若手なんてその程度だとハナから思っているので、そんなの大したことじゃないんだけどな、と感じるのだけれど、彼らの肥大化した自意識からすると、それは許されないのだろう。
先輩や上司の背中を見て、その仕事を盗む(能動的)というのが当たり前であった僕らの世代からすると、若い世代の社員は「教えてもらうのが当たり前」(受動的)だと思っている節がある。
これは良いとか悪いとかそういう問題ではなくて、たぶん時代背景とか、教育方針とか、そういうものの所産なので、デフォルトとして受け止めるしかないものだと思う(もちろん個人として思うことはあるのだけれど、あくまで実際的な方法論としてはそう考えた方が有用だ)。
ゼロイチの世界では心は「折れる」
そして彼らは0か1というデジタル的な感性を持っている。
1でなければ0、1つできなければ全部できない、みたいに思ってしまうようだ。
僕らはその辺がアナログなので、1と0の間に、「あわい」というか、グラデーションというか、そのような様々な出力がある。
だから、1でなくても0.9くらいだな、とか、0.3だったからちょっと頑張らなきゃな、とか、そうやって仕事と折り合いをつけていく。
彼らがよく「心が折れる」という言葉を使うのも、このイメージと関連しているのだと思う。
ゼロイチの世界観においては、確かに心というのは「折れる」ものなのだろう。
出力があるか、ないかの違いのように捉えられるのだろう。
僕の感覚的には心は「曲がる」ものだ。
「落ち込む」とか「へこむ」ものだ。
そこを理解することがメンタル離脱を防ぐためには必要なことだと思う。
使えない奴も使わなければならない
確かにそこに焦点を当てて、「近頃の若者は軟弱だ」と言うことは簡単だ。
そうやって「使えない」奴を切り捨てていって、次から次へと取り換えていければ、それはそれでいいのだろう。
でも、僕はそこから1歩進めて(下がって?)、「そういう人でも使わなければならない」という感覚の中でマネジメントをしている。
もう少し雑な言い方をすれば、捨てる方が楽なんだけどな、と思いながら仕事をしている。
これからは「そういう奴ら」が社会の大勢を占める
若い世代の感性に違和感を覚えることは僕にもある。
別に彼らの味方を気取っている訳ではないし、どちらかというとイライラすることばかりだ。
でも、残念ながら、大抵の部下は「そういう奴」だし、これからも「そういう奴」がどんどんと入ってくる。
むしろそういう世代の方が大勢を占めていく。
だから、切って捨てても、また同じようなヤツが入ってくるだけだ。
僕の考えの方が厭世的だろう?
でもそうなのだから仕方がない。
過去に拘泥していても仕方がない。
だから、現実的には彼らを使うしかないのだ。
小さなバーナーで氷を溶かす
では、どうするか?
思いつくままに書いてみる。
まずは、自分の失敗を見せることだ。
過去の体験でも良いし、現在進行形でも良い。
平たい言い方をするのであれば、マネージャーもしょうもない人間である(その若手と同様に)ということを理解してもらうということだと思う。
そして、そのような同じ地平に立つ人間として、彼らにちょっかいをかける。
大体の若手は仕事が詰まると、思考停止というか、パソコンの前で手が止まっていることが多いので、横の席にでも座って、彼らと話をする。
僕らからすれば些細な問題なのだけれど、彼らはそれすらも聞くことができずに、そのままの状態でフリーズしている。
僕は小さなバーナーを持って、それを溶かしていく。
軽く馬鹿にしながら、それを冗談めかして茶化していく。
下らない人間達による「下らなくない」成果物
仕事場以外でのコミュニケーションが困難になっている時代(コロナに限らず)において、人間性を感じてもらうことはとても重要だ。
これは何も若手だけではない。
どの部下に対しても、弱さを見せたり、どうしようもなさを開示したり、そういうマネージャーの裸の部分を知ってもらうことはとても大事だと思う。
そんな自分でも、マネージャーという着ぐるみを着て、それっぽく振舞っている、演じている、ということを体感してもらう。
自分もどうしようもないけれど、マネージャーや他の人もどうしようもない、ということを理解してもらう。
その地平から僕らは仕事を始める。
僕が雑談などの下らないコミュニケーションを重要視しているのは、こういうことも関係している。
その下らない人間同士が集まって、下らない仕事をしている。
でも時に、「下らなくない」成果物が出来たりする。
それが仕事の面白さだ。
そんなことは滅多に起きない。
でも。
それでも。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
仕事は人生の一部でしかない、と僕は考えています。
それは、仕事をする為に生きている訳ではない、と言い換えることもできます。
でも一方で、その逆の、生きる為に仕事をする、というのが正解かと言われるとちょっと違うような気がしています。
僕が「社畜」という言葉があまり好きでないのは、そこに自分の能動性の否定の意味合いが含まれているからかもしれません。
もちろん、世の中の大半の会社は理不尽で、個人というのはその渦に飲まれざるを得ないというのも体感としてよくわかっているつもりです。
それでも、そこに自らささやかな楽しみを見つけることをしなければ、人生というものが決定論的なものになってしまうのではないか、と僕は考えています。
そのような「低体温の能動性」は、ゼロイチの世界観で生きる若い人たちはわからないかもしれません。
「本当の自分」がすべきでない仕事だと切り捨ててしまう類のものなのかもしれません。
僕は小さな世界で自身や組織の下らなさを受容しながら、いい仕事をしたいと考えています。
その中に若い世代が入ってくれたら、とても嬉しいです。