計数化の弊害

科学万能主義

何事に対しても計数に落としたがる人がいる。

科学的思考というか、科学主義というか、万物は「科学する」ことができる、と思っている人がいる。

科学的である、という言葉はどちらかというとポジティブな意味合いで使われることが多いけれど、ちょっと待てよ、と僕は思う。

科学的であるというのは、ある種の抽象化(単純化)だ。

ある事象のエッセンスを取り出すとこうなる(それもある限定的な条件においては)ということを示しているに過ぎない。

もちろん科学的態度が悪い訳ではない。

それはむしろ必要なものでもある。

ただ、それが行き過ぎると、弊害をもたらすことが多い、というのが今回の論考になる。

「科学的でない=正しくない」?

20世紀はサイエンスの時代、21世紀はアートの時代といったら、大風呂敷を広げすぎだろうか?

でも僕が今回言いたいことはここに集約される。

20世紀は人間の活動(自然環境etc.)を科学的に解明していくことで成功した時代だった。

ある物事をモデル化して、それを人間が扱えるようなサイズに簡素化して、それをまた具体的事象に戻していく。

抽象化と具体化の反復を行うことで、世界を「わかりやすい」ものにする。

(わかりやすいというのは言葉の通り、分解していく(分かる・解る)ことだ)

そして僕たちは実際に科学を使って、工業化に成功してきた。

それは間違いない。

でも、あまりにもこの科学的態度が行き過ぎてしまうと、世界というのは単純化され過ぎてしまう。

(科学と科学的態度というものは大きく異なるものだ)

もう少し言うと、科学的でないものは「正しくない」ものとされてしまう。

科学原理主義というか、科学万能主義というか、善悪までもがそれによって判断されるようになる。

(ポパーを持ち出すまでもなく、科学的態度というのは思想の一形態に過ぎないものだ)

数字で世界を詳述できる訳ではない

マネジメントの領域においても、このような科学的態度を用いてそれを分析可能なものに還元しようとする傾向がある。

繰り返しになるがそれは間違いではない

ただそれが過剰になると弊害も生じてくるということだ。

例えば、マネジメントを数値に置き換えて理解しようとするアプローチ方法があるとして、その数値に異常にこだわりを見せ出す、というのがこの弊害という部分だ。

数値というのはわかりやすい

というか、わかった気になれる

安心できる

でもそれだけでマネジメント全体がわかる訳ではない。

数値というのはあくまでもマネジメントの一部に過ぎないのに、それが目標に到達すれば、全体の目標にも到達できる、と思っている人が少なからずいる。

そして(特に秀才タイプの人にこの傾向は強く表れるのだけれど)その数字に異常なこだわりを見せたりする。

僕からしたら、それはあるモデル内における仮説のそれも1つの数値を示しているだけに過ぎないものなのに、それが世界の全てを記述しているかのように言ったりする。

木を見て森を見ず、というか、大事なのはそこじゃないんだけどなあ、と思うのだけれど、このような話はどうやら通じないようだ。

彼らにはその数字を正確につかむことが全てで、その数値が分かれば世界もわかる、と思っているようだけれど、仮にその数値が全て望み通りになったとしても、僕は世界は分からないと思っている、と言ったら少しは伝わるだろうか。

「魔法」をかける

数字は大切なものであるけれど、万能ではない。

そこには「魔法」がない

陳腐な言葉遣いになってしまうのは承知の上で書くと、最後の仕上げというか、そこに捻りみたいなものを加えないと、マネジメントはマネジメントたりえない。

機械に魂が宿らないように、そこに何らかのものを加えないと、それは無味乾燥なものになってしまう。

その魔法というのがアートだ。

僕はマネジメントにおいて「マインド」というものを非常に大事にしているタイプのマネージャーだと思っているけれど、そのアートを生み出すのがメンバーのマインドであり、そのアート性を引き出すのがマネージャーの腕の見せ所なのだ。

金太郎飴と工業製品

上手く言えないけれど、サイエンスの時代において労働者は労働者だった。

というか、労働者であることが良しとされた。

創意工夫をしたり、人と違うことを考えたりすることなく、画一的であること、金太郎飴的であることが望ましいものとされた。

工業製品のような人間が望まれた(そしてそれを生み出す為の教育が行われた)。

でもアートの時代においては労働者は労働者のままではいけない。

考えたり、はみ出したり、自我を出したり、しなければそこにアートは生じない。

イレギュラーなもの、リスクのあるもの、変動的なもの、そういったものを組み合わせていった先にアートは生じる。

形のないものをそのままの形で扱っていく

それをそのままの形で取り扱うのがマネージャーの仕事だ。

不定形で不安定なアートの萌芽みたいなものを、そのままの形でビジネスにも適用していく。

それは遊びに近いものであるし、言葉遊びみたいなものでもあるし、自由連想みたいなものでもある。

誰がいかに粋なことを言えるか選手権みたいなもの。

それを面白がっていくこと。

そしてその表面を転がっていくこと。

それがマネジメントだ。

決して数値化はできない。

でもそれこそが面白いのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

世界を上手に切り取ることができる、というのが知性であると考える人がいます。

モデル化、というか、複雑な事象をわかりやすく伝えられる、というのは確かに知性の発露の一形態ではあると思います。

でもそこには「失われたもの」がある。

もちろんそれを捨象しなければ世界は複雑なままであるので、必要な行為ではあるのですが、そこに何というか「惜別の情」というか、「もののあはれ」というか、失われたものがそこにはあるのだ、という感情がなければ、それはただの単純化(体温や質感がない)に過ぎなくなってしまいます。

コンサル的な知性は必要であるのですが、十分ではない。

僕はそんな風に考えながらマネジメントを行っています。

切れ味の良い議論だけでなく、曖昧な議論も大事にしていきましょう。