会って話すことにもう少し労力をかけた方がいい
仕事における問題の大半は人間関係によるもの
すれ違い。
ボタンの掛け違い。
大したことではないのに、喉に刺さった小骨のようにその存在感を示し続け、仕事がやりづらくなる状況。
そんなことを目にすることが増えたように思う。
僕はマネージャーという仕事柄、双方から「アイツが悪い」という相談を受けることが多く、その内容をよくよく聞いてみると「ただの誤解では?」と感じることばかりなので、「もう少し面と向かって話をすればいいのになあ…」といつも思うことになる。
9年以上のマネジメントの経験から言えるのは、仕事における問題の大半は人間関係によるもので、その人間関係の悪化をもたらす原因の大半は些細なことから始まる、ということである。
だから、その問題が些細な状態である時に、その些細な問題について会って話をしておいた方がいいのではないか、というのが今日のテーマであり、提言となる。
というか、その状態の時に手を付けておかないと(そこでその労力を惜しむと)、もう後からは修正不可能になってしまうから。
それでは始めていこう。
話を聞けない人ばかり
話を聞けない人。
何だかそんな人が増えているように感じている。
もう少し正確に表現するなら、相手が思っていることや言外に発している信号など、そういうものを含めた「相手の意思全体を解釈できない人」がすごく多くなった印象を僕は受けている。
結果、多くの人が「話が通じない」→「言っても無駄」というルート(ループ?)に入ってしまって、どんどんとストレスを溜めていっているように思う。
またそう言う当人も、相手の話を聞くことができないので、その対立は永遠に鎮まることがない。
「皆言いたいことは言うけれど、相手の話は聞かない」そんな感じである。
曲がり角全部間違えてない?
僕は大岡越前のように、「アイツの悪行」について双方から話を聞くばかりだ。
確かにそれぞれの言っていることが、全くの的外れとまでは言えないと思う。
その要素は確かに含まれてはいる。
でも、ちょっと他意があり過ぎるのではないか(曲解しすぎているのではないか)、とも感じてしまう。
だから、「曲がり角全てを悪い方向に取れば確かにそのような解釈になるだろうけれど、きっとそこまでは考えていないし、悪気がある訳でもないのでは?」というような趣旨のことをそれぞれに話す。
すると、「いや、課長はそうやって相手を庇うから」となる。
そうなのだろうか?
というか、なぜ「当人同士で話をして解決しよう」という選択肢が最初から排除されているのだろうか?
僕にはよくわからない。
「会って話をする」しかない
僕は人間関係における問題解決には、「会って話をする」以外に選択肢はあまりないと思っている。
他の方法は「解決に向かったように見えるかもしれないけれど、地下に潜っただけ(もしくはその亜種)」に過ぎない。
だから、どんなに面倒くさくても、困難でも、「話をするしかない」のである。
これは「納得」を導く為ではない。
相手の理路や思考回路を知る為である。
もちろん、それを知ったからと言って、「解決」に繋がる訳ではない(そして、「解決」なんてものはないのだ、きっと)。
ただ、無用な対立の部分は緩和することができる。
大抵の場合、想像が想像を呼び、解釈に解釈を重ね、実態以上に悪く捉えてしまっていることばかりなのだ。
なので、その部分だけでも減らす。
それが対話をする意味である。
そして、多くのお悩み相談を受けてきた僕が思うのは、そのきっかけとなる事象は本当に些細なことであり、それがなぜこのような異常な進化を遂げてしまったのか、ということである。
そうならないように、できるだけ早い段階で話をしておいた方がいい。
僕はそのように思う。
対話はディベートじゃねえぞ?
また、加えて感じるのは、上手に対話することができない、そもそも対話をしたことがない、そういう人が多い(増えている)ということである。
面と向かって話をすることは、ケンカではない。
相手を打ち負かすことが目的ではない。
でも、どうにもケンカ腰というか、対立構造での話し方しかできない人が多過ぎるのだ。
リターンはリスクを伴うもの
人間にはそれぞれの考え方がある。
そして、様々な立場がある。
だから、人と人が交わる時、それなりの対立や不和が生じるのは致し方ないというか、ある種必然なのだと僕は考えている。
その中で、どこに着地点を見出すのかとか、折り合いをつけるのかを考えるのが、大人の作法なのではないだろうか?
その努力や労力を惜しんで、というか、他者(例えば僕のようなマネージャー)にぶん投げて、自分はその利得だけを得ようとするのは、非常に子供っぽいやり方のように僕には思える。
まあ、気持ちはわかる。
顔も見たくない、確かにそうだろう。
ただ、それを改善する為に何もしない、しようともしない、というのもいかがなものだろうか?
話したい人ばかり
いつまでも被害者の立場。
変わらない被害者面。
大人が割を食う社会。
話を聞くことを放棄し、主張だけはいっちょ前な人たち。
大人になろうぜ?
話を聞こうぜ?
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
聞く人=絶滅危惧種。
そんなことを思う時があります。
でも、聞く人はあまり評価されません。
話す人ばかりが評価され、そのような言葉が拡散され、正に「放言」が罷り通っているのが現代という時代です。
ただ、誰にも届いてやしない。
僕がコロナを経て得た教訓は、人は人と話をしたい、それも対面で、ということです。
そして、ありたがいことに、話を聞くことができる僕には、たくさんの会いたいという依頼がある、ということです。
話を聞きましょう。
たとえ理解を超える相手の、想像を超える話でも。
それ以外に、僕たちが歩み寄る方法はありません(歩み寄ることに意味があるかどうかはわかりませんが)。
陰湿な陰口よりも、言ってしまった気まずさを。
それを抱えながら生きていきましょう。