時短勤務者をどうマネジメントするか?

同質性の高低

働き方が多様化していく中で、マネジメントはその困難の度合いを増している。

昭和時代であれば、「日本人・男性・新卒・正社員」という同質性の高い社員をただひたすらに追い立てれば良かったのだろうけれど、令和時代ではそうはいかない。

それぞれのバックグラウンドが違う社員を、目標に向けて気持ち良く動かしていかなければならない。

今日はその中の1つである「時短勤務者」に焦点を当てて書いてみようと思う。

(ポリティカル・コレクトネス的にはやや気分を害するような発言があるかもしれないが、その部分についてはご了承願いたい。他のブログ記事を読んで頂ければわかると思うが、僕自身は全く差別論者ではないし、多様性についてポジティブな考え方を持っている。それでも「現実」には困難なこともあるし、「現場」においてはそうは言っていられないところもある。そのように困難な「現実」を受け止めた上で、残存する差異や違いというものをどうやったら超克できるかに僕らはエネルギーを傾けるべきだと思っている。その手前での議論は不毛とまでは言えないまでも、やや理想論過ぎるような気がしているのも事実だ。それでも気分を害されるというのであれば、それは僕の説明力が足りない訳で、その点については深くお詫びしたいと思う)

うわべの一体感なんていらない

僕自身は5年以上マネジメントをやっているので、今となってはどうということもないけれど、それこそマネージャーになりたての頃には、それぞれの勤務形態が異なるということにやりづらさを感じていた。

朝会での指示も1回では済まないし、夕方に伝えたいことが出てきても帰社していて翌日になってしまうし、何となくエンゲージメントも低いような気がするし、どうしたらいいのかな、と悩んでいた。

当時の僕はチームには「一体感」が不可欠だと思っていたし、「一枚岩」であることがチームにとってポジティブな要素であると考えていたので、それをある種損ねるような勤務形態の違いというものに戸惑っていた訳だ。

でも段々と時代は変わり、時短勤務に限らず、フレックスタイムやリモートワークも当たり前になる中で、そのような上辺の「一体感」なんていらないんだな、ということに気付くことになった。

それぞれがそれぞれの個性を抱えながら、弱い繋がりとしてのチームがあれば、高い成果を上げることができるのだな、ということを経験と共に身に付けていった、と言い換えてもいいのかもしれない。

「低体温」で仕事を「こなす」ようにならないように

僕は時々同期の友人から、「どのようにマネジメントをやっているの?」と聞かれることがあるのだが、最近は「メンバーのモチベーションを保つことだけを考えている」と答えることが多い。

裏を返せば、それ以外は何もやっていないと言ってもいい。

時短勤務者に限らず、それぞれのメンバーはそれぞれの事情を抱えている。

やや重い言葉を使うのであれば、「働く背景(理由)」というのはそれぞれ異なっている。

そして今後のキャリアの方向性も様々だ。

その中で、たまたま偶然にチームとして僕らは一緒に働くことになったわけだ。

それは「一過性」のもので、同じメンバーで退職までずっと働いていく訳ではない。

そのようなある種不安定な環境の中で成果を上げる為には、僕はチームというもののルールを厳格に定めたり、ガチガチに固めたりしない方がいいのではないか、と考えるようになった。

メンバーも入れ替わるし、メンバーの状況も変わるし、育児が必要になったり、介護が必要になったり、本当に日々色々なことが起こる。

そのような状態の中で、「同質性」を求めると、どうしても「無理」が出てきてしまう。

それを敢えて口にする人は少ないけれど、このような状態で働いていると、どうやったってモチベーションは下がっていく。

喉に物が詰まっているかのように、何となく「低体温」仕事を「こなす」ようになっていく。

それでは成果は上がらない(し、継続できない)。

成果を軸として評価する

僕はどのような勤務形態の人でも、そこに「居場所」があるように感じて欲しいと思っている。

自分もチームに貢献していると感じて欲しいと思っている。

理想論的な甘いことを言っていると思われるかもしれないけれど、僕の現時点での結論は、そのようにチームメンバーが「機嫌よく」働くことができれば、チームというのは安定するし、成果も出るのだな、ということだ。

少しだけ現実的なことを言うと、そのような勤務形態が違う人達を纏めていく中で、僕が軸としているのはあくまでも「成果」だということだ。

働く時間が短くても、休みが多くても、成果を出すことができていれば、何の文句があるのだろう?

僕はそのように考えている。

それはある種苦肉の策ではあるのだけれど、キャリアや働き方の違いを考慮した場合には、「成果」を物差しにするのが一番公平であると思う。

「成果」と「成果だけ」

勘違いしないで欲しいのは、僕は「成果」を重要視しているけれど、「成果だけ」を見ている訳ではない、ということだ。

成果を出す、のは必要条件であって、十分条件ではない。

成果を出す為に何をやっても良い訳じゃないし、成果だけ出していれば傍若無人に振舞っていい訳でもない。

あくまでもバランスの話だ。

もう少し今っぽく言うのであれば、それが「ジョブディスクリプション」として求められているものなのであれば、それを基準に評価している、という感じになるのだと思う。

違いや事情を超えて、たまたまその場に会したメンバーが、目標に向かって(ある種バラバラに)頑張っていく。

それでいいのだ、と僕は思っている。

今回は難しい話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

仕事というのはあくまで仕事でしかないのに、「身分」のように扱われてしまうことに戸惑いを感じることがあります。

滅私奉公とか、忠勤とか、愛社精神とか、そういうものの重要性も理解しているつもりですが、それだけでは現代の「現場」を回していくことはできません。

というか、「そんなものなくても、プロフェッショナルとして仕事をしてくれれば、それいいんじゃない(十分じゃない)?」と僕は考えています。

それぞれが大事なのは人生であって、仕事ではありません。

僕らはその人生における一部を「たまたま」持ち寄って、そこでチームとして「たまたま」仕事をしているだけです。

現実問題として、そのしわ寄せがフルタイムの社員にきてしまっている、ということも考えると、「間に落ちる仕事」という考え方を捨てて(それは日本企業の美徳でもあり、競争力の源泉でもあった訳ですが)、ジョブを明確に定義していくしかないのかな、と最近は(ある種ドライに)考えています。

そこで失われるものは失われるものとして受け止めるしかありません(もちろん僕にも一抹の寂しさはあります)。

全ての人が満足することは不可能ですが、みんながある程度「まあまあ」の解を得られるように、僕はこれからも働き方を模索していくつもりです。

難しい問題ですが、少しでもいい仕事ができるよう、頑張っていきましょう。