労働と投資

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「お金に対する不安がマネジメント力の向上を阻害しているのではないか?」という仮説

「なぜ日本のマネジメント力は向上しないのか?」

「上だけを見るマネージャーはなぜ絶滅しないのか?」

そんな問いを立てた時に、1つの答えになるのではないかと思ったのが、「金融リテラシーの低さ」である。

「金融リテラシー? マネジメントの話なのに?」

その疑問はもっともである。

というか、普段書いていることが上記の問いに対する答えであることが殆どなのだけれど、それに加えて、「お金に対する不安」がマネジメント力の向上を阻害しているのではないか、というのが今日の仮説となる。

お金に対する不安がなくなれば、きっと上だけを見るマネージャーは減るはずだ。

よく分からないと思うけれど、今日はそんなことを書いてみる。

上司ばかり見て仕事をするのはなぜなのか?

多くのマネージャーが部下を見るのではなく上司を見て仕事をしているのは、彼ら(彼女ら)がお金に対する不安を持っているからである。

そしてそれがなくなれば、もっと部下のことを考えた仕事ができるはずだ。

そんなことを時々思う。

そしてここには、年功賃金と昇進昇格、教育費と住宅ローン、その返済と退職金、という人生プランが関係してくる。

テンプレ人生プラン

僕たちは未だに親から受け継いだ思想を引きずったまま仕事をしている。

良い成績を修め、良い大学に入って、大企業に入って出世コースに乗る。

昇進と昇給によって収入を増やし、住宅をローンで購入し、子供の教育費にお金をかける(次代にも良い成績を修められるように)。

その支出を給与と退職金で返済する。

そこで初めて「余暇」を得られる。

いやいや、年金が足りない。医療費だってかかるだろう。老後の資金も重要だ。

だからお金を貯めておこう。

これが多くの日本人の人生プランである。

再生と差異性

僕たちは常にお金の不安を抱えたまま生きている。

そしてその流れを再生産し続ける。

「これをそろそろやめないか?」というのがここからの話となる。

収入は労働から得るのとは限らない

若手社員は気づき始めているけれど、マネージャー層はまだまだ気づいていないのは、収入というのは労働を対価に得るものとは限らない、ということである。

もっと言うと、労働という命を削って得られる対価というのはたかが知れているし、割に合わないし、限界がある、ということである(労働価値説的な臭いがする書き方ではあるが…)。

重要なのでもう1度言う。

収入は労働から得るものとは限らない。

では何から得るのか?

それが投資である。

自己防衛おじさん的対策を

「この30年間給与が上がっていない!」と政治家たちは声高に叫ぶ。

そこには確かに政治的要因(政治がうまくワークしていない)もあるだろう。

でも、僕が思うのは、このような政治的状況はたぶんこのまま変わらないだろう、ということである。

もっと正確に言うと、仮に変わらないとしても何とかなるくらいの自助努力はしておいた方がいいのではないか、ということである。

人口オーナス

高齢化が進み、人口が世界に類を見ないくらいの速度で減少していく日本社会において、経済成長が続くというのは幻想に過ぎないと僕は思っている。

もちろん生産性の向上により、人口減少をカバーできる可能性は存在する。

しかしながら、現在のDXの議論のレベルの低さなどを鑑みると、その可能性も低そうである。

人口が減少し、生産性も向上しないと、当然ながら経済は発展しない

経済が発展しなければ、(実質)賃金が上がることはない。

それがこの30年の日本の状況である。

不安を払拭する為に不機嫌そうに働くことが更なる不機嫌を招く

そして人はどんどん自分だけのことしか考えなくなっていく。

そりゃそうだ。

貧しくなるのに他人のことを構っている余裕なんてないからだ。

企業という組織において、多くの人達が不機嫌そうに働いているのは、そんなことが関係しているのではないか、と僕は思う。

みんな目先のカネのことしか考えていない。

なぜか?

不安だからである。

不安を解消する為に、自由を売ってカネを得る。

出世したところで、昇給したところで、その不安は払拭されない。

ずっと不安なまま、退職まで働いていく。

それを次の世代も繰り返していく。

そうやって僕たちは身も心も貧しくなっていくのだ。

会社を辞めたい人ばかりの社会はやっぱりおかしい

僕は最近投資教育の必要性を考えている。

お金に対する不安がなくなれば、仕事に対するスタンスも変わるはずだ、そんなことを思っている。

多くの人が「宝くじが当たったら絶対に仕事をやめる!」と言っている社会は、やっぱり健全ではない(病的である)と僕は思うのである。

もし人生のお金が賄える収入があれば、仕事というのはもっと自由になるはずである。

本質的なことに注力できるようになるはずである。

FIRE論が持て囃されるのは、きっとこのようなイメージなのだ。

労働一本足打法

投資は労働収入以外の収入を生む。

それは資産となる。

別に資本家と呼ばれる程の資産を持つ必要はない。

ただ、収入源を労働収入のみにすることはリスクがあるということを知って欲しいのである。

まともに働きたい

確かに投資にはリスクがある

でも、労働にだってリスクはあるのだ。

そこで神経をすり減らし、不機嫌を振り撒き、部下を蹴落として得る労働対価。

それよりも、社会に金を還流させて、それが自分にもリターンとして返ってくる投資の方が僕は健全であるように思える。

というか、投資というものを知れば、僕たちの労働が誰かの問題を解決しているという実感が持てるようになるはずなのだ。

時間の切り売りではない、まともな働き方とマネジメント。

その為には金融リテラシーの向上が必要なのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

キッザニアを持ち出すまでもなく、「お店屋さんごっこ」というのは本来楽しいものであるはずです。

でもいつからか、僕たちはそれを苦役だと感じるようになっていく。

その原因は金融という概念の欠如であるような気がします。

僕たちはお金に「消費」でしか関わりません。

「投資」「寄付」もすることなく、「消費」の為に「貯蓄」します。

本文では投資に主眼を置いて書きましたが、イメージとしては「金は天下の回り物」という感じです。

もっと自由に働けるように、消費以外のお金との関わり方を僕たちはもっと知る必要があるような気がしています。

固執せず、でも解き放たれ過ぎず、軽やかにお金と関わっていきましょう。