頭と体のバランス

マネジメントとはバランスを取る仕事

マネジメント業はバランスゲーだといつも思う。

どちらに偏り過ぎてもいけない。

移り変わっていく状況の中で、最適なバランスを常に見つけていく作業の連続。

これが適切にできるとチームは安定して高い成果を出すことができる。

そのようなことを考えた時に、現代は「頭」に重心が寄りがちなのではないか(「体」ではなく)、ということが浮かんだので今日はそれを文章にしてみる。

それでは始めていこう。

体の時代と頭の時代

昭和を「体の時代」、令和を「頭の時代」と今回は仮定して話をしていく。

昭和におけるマネジメントというのは、「とにかくやれ!」「できるまでやれ!」というような、わかり易く言えば体育会系論理が「常識」の世界であった。

そしてマネージャーというのは「偉そう」であった。

「偉そう」というのは、実際に権威もあったし、そのような擬制が成り立ってもいたということである。

要は、上位者は偉くて、下位者に命令することができて、その命令に基づいて下位者は体を動かす、根性で勝負する、みたいな時代であった。

無駄なデータを体に叩き込むこと

僕が会社に入った頃には、この種の上司や先輩がまだたくさんいて、その残り香を吸いながら僕は社会人生活を始めたのである。

そういう意味では、郷愁があるとも言える。

もちろん嫌なこともたくさんあったけれど、親分肌の上司がいて、僕が日々やらかす数々の失敗にも、「しょうがねえなあ…」と笑いながら対処してくれていた、ある種牧歌的な側面がある時代であったように思う。

僕はその中で、「体を使った営業手法」というものを文字通り「体得」した。

朝から晩まで取引先を回り、炎天下であろうが豪雨であろうが、本当に駆けずり回っていた。

殆どは商談にすら至らなくて、断られることばかりで、その度に「ああ、なんて自分は営業ができないのだろう…」と肩を落としていたものである。

でも、その反復を繰り返していく度に、凡庸な僕ですら、コツみたいなものがわかってきて、どんどん商談が上手くいくようになってきた。

それは誰かに教えられたものではないし、再現可能かと問われれば、断片的なことは説明ができるかもしれないけれど、その総体を伝えるのは難しいものでもある。

もうちょっと考えながらやれば距離を短縮できたかなと思う反面、多くの無駄なデータがあったからこそ遠くまで行くことができたのだとも思うのである。

個人的な「体の時代」の体験を、「頭の時代」に持ってくるのは難しい

これが僕の「原体験」である。

そしてそれは僕1人の「個人的な経験」に過ぎないのだ。

それをそのままの状態で令和の時代に持ってくるのはなかなか難しい。

というのは、令和は「頭の時代」だからである。

最短距離とコストパフォーマンス

若手と話すたびに、彼ら(彼女ら)は「意味」を求めたがることを感じる。

「最短距離」「コストパフォーマンス」を計量したがることに気づく。

それは決して悪いことではない。

どちらかというと、そちらの考え方の方が僕は好きですらある。

ただ、冒頭に書いたようにバランスが悪いように感じるのだ。

自分でやるのではなく、評論家みたいな態度を取る人がとても多いように感じるのである。

評論には疚しさが必要

これはスポーツを実際にプレーするのと観戦するのとでは大きく異なる、ということが本当の意味ではわかっていないのと近しいような感覚である。

Youtubeのコメント欄みたいに、多くの人はプレー集の不出来な部分をあげつらい、「なんであんなこともできないのか」と評論を行う。

それ自体は別に悪いことではない。

ただそこに必要なのは「多少の疚しさ」であると僕は思っている。

無様な自己像と対峙しなけれ上達はない

自分のことを棚に上げるなとは言わない(僕だってよくやるから)。

ただ、そこには羞恥心があってしかるべきだとは思うのである。

無様な姿を見せたくないし、その自己像を見たくない、その気持ちはよくわかる。

でも、スマートで綺麗な自己像だけでは、プレーは上達しないのだ。

天才も練習している

スーパープレーヤーたちは、難しいことをいとも簡単にやってのける。

それを見ると、自分達も簡単にあの領域へ到達できると錯覚してしまう。

でも、どんなに才能がある人であれ、努力をしていないなんてことはないのだ。

もちろん、進む速度は違うだろう。

ただ、確実に練習はしているのだ。

切り取ったそれが全てだと思うな

僕たちはある一時点を切り取って、いとも簡単にその領域に辿り着いたように思う。

編集されたテレビ番組のように、人が上達する過程というのは地味でつまらないものでもあるので、簡単にカットされてしまう。

それを僕たちは「頭」で理解しようとする。

ページをめくれば、次の展開になっているイメージが頭にこびりついている。

でも、そんなことはないのだ。

僕たち人間は体でシミュレートする

ニューロンやシナプスのことはよくわからない。

でも、ディープラーニングだって、何万回もの試行を繰り返している。

人間だって同じはずである。

そして残念ながら(というか幸運なことに?)、人間のシミュレートには「体」が必要なのである。

ジョブズの話

その渦中では何をやっているかよくわからないかもしれない。

でもいつだって意味は後からついてくるもの(コネクティング・ザ・ドッツ)なのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

現在のところ、AIに比べて人間に優位性があるのは「身体がある」ということです。

外界とのフィードバックをダイレクトに反映させることが人間には可能です。

それを活かさない手はない、と僕は考えています。

頭で考えられることは、AIで代替可能です。

体も使っていきましょう。