成果主義にAIを導入したらどうなるのか?

UnsplashAlina Grubnyakが撮影した写真

成果主義はダメ。本当に?

成果主義には機能不全がある。

成果主義は失敗例ばかりである。

だから成果主義はダメなんだ。

そういう話をよく聞く。

本当にそうなのだろうか?

というか、現状維持の方がマシだとでも言うのだろうか?

僕は日本のこの30年以上に亘る停滞に危機感を抱いている。

もちろん、それが成果主義によって打開できるというのは、あまりにも単純化された話であることはわかっている。

でも、それを材料にすることで、何らかのヒントになるような話ができるかもしれないと思って、今回は書いていく。

思考実験。

それでは始めていこう。

批判・批難。よくわかる。でもさ…

多くの人の話を聞いている時に僕がいつも疑問に思うのは、「どうやったら上手くいくのか?」ということを考えずに、「ダメな点ばかりを列挙する」思考形態である。

言いたいことはわかる。

気持ちにも共感する。

でも、そのマインドを変えなければ、ただの愚痴に終わってしまう。

「対案を出せよ!」と凄むつもりはないけれど、そこに留まるのではなく、一歩踏み出した議論、建設的な話し合いを僕はしたいと思うのである。

じゃあ働かないおじさんは批判するなよ?

成果主義の対極にあるのは、「年功賃金制度」である。

ここには、「働かないおじさん(おばさん、etc.)」問題が含まれている。

「それでいいのですか?」と僕は思うのである。

時にそのような「働かないおじさん」を批判して、一方で成果主義は嫌だと言う。

「では、どうするのですか?」と僕は思うのである。

人間が人間を評価するには限界がある

今回の話はそのような停滞、議論の輪から抜け出す為の思考実験である。

僕がいま考えているのは、成果主義の機能不全というのは、「人間が他人の成果を評価するには限界がある」ことに起因するものなのではないか、ということである。

じゃあ、成果の評価を人間じゃないものにさせたら?

ややきな臭い話になってきた。

でも、面白そうなので話を続けていく。

AIがアルゴリズムによって人間を評価したら?

成果主義の問題は、「成果をどのように計測するか?」「その計測されたものが適切か?」ということに着地するような気がしている。

人間の認知機能には限界があるし、人間の全ての行動を何らかの指標に置き換えることは不可能である。

そしてそのような不完全な指標に基づいた評価には、必ず恣意性が含まれる。

要は、「成果と言っても、上司の好き嫌いで決めてるんでしょ?」というような着地になることが多いような気がしている。

言っていることは分かるし、実態的にもきっとそうなのだろう。

では、「人間の全ての行動を記録し、それを基にAIがアルゴリズムによって評価する」としたら?

いい感じにディストピアになってきた。

でも、方向性としては悪くないのではないか、と僕は考えている。

数値化には限界がある。ならば、全てを計測してしまえばいい。

「数値化」には罠がある。

それは何回かこのブログの中でも採り上げてきた問題である。

数値というのは本来的には無味無臭の乾いたものであるはず(べき)なのに、そこに様々な付帯物がくっついていて、本来の良さを発揮できていない、それが「数値化の罠」である。

結局のところ、僕たち人間に知覚でき、簡単に計測できるものしか、僕たちは評価できない。

ここに成果主義の限界があるような気がしている。

成果主義における「成果」というのは、あくまでも「計測可能な成果」であって、それが成果の全てではない。

そう多くの人は感じている。

だから不満に思うのだ。

それなら全てを計測してしまえばいい。

それが僕の仮説である。

成果主義の完成形

あらゆる人間の行動を電子デバイスによって、計測する。

それをログとして残す。

交わされた会話や、実際の行動、勤務時間や、PCの閲覧時間、など、あらゆるものを指数化する。

もしかしたら、そこに他者からの評価(例えば360度評価)を加味してみる。

そうすると、もう1人の「あなた」が電子上に現れる。

指数化された「あなた」が。

アルゴリズムはブラックボックス化されて、どの項目が配点が高いのかはわからないようになっている。

だから、「狙って高得点を出す」ことは現実的には不可能である。

もしかしたら、「狙って高得点を出そうとしている」こと自体が、点数を下げる要因であるかもしれないから。

僕たちは数値化され、透明化される。

あらゆるものが可視化される。

そうして僕たちは査定される。

そこには有無を言わせないだけの絶対性がある。

それがたぶん成果主義の完成形だ。

ディストピアだろう?

でも、ここにはヒントもあるような気もするのだ。

それを書いて今回の思考実験を終えようと思う。

選ぶのは僕たちだ

例えば、アルゴリズムを基に出てきた数値を基に、人間が修正を加える、というのはどうだろうか。

もしかしたら、アルゴリズム自体の重み付けを変える必要性が生じるかもしれない。

そうやってチューニングを繰り返していく。

人間の恣意性を入れる割合を高めれば現在の成果主義に近づくし、そうでなければ完全成果主義に近づく。

その比率はそれぞれの企業で選べばいい。

僕はそんな風に思うのだ。

「働かないおじさん」の議論は、僕みたいなサイコパスが考えると、このようなディストピアに繋がっていく。

それを選ぶのは僕たち次第だ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「主体が含まれていない議論」というのが昔から苦手です。

以前「共犯者的思考論」の中でも書いたと思うのですが、僕たちが存在している以上、世界と無関係であるということはあり得ません。

そこに何らかの因果はあるのです。

でも、「主体が含まれてない議論」というのは、自分は完全にフリーで、そこから独立した存在(神の視点?)として話を進めようとする。

それは無理筋だぜ?

僕たちがこのような僕たちの現状を受け入れているのには、僕らにも責任があります(大層な責任とは言えないまでも)。

そのちょっとした疚しさの中に、現実的な議論が生まれます。

被害者意識を捨て、共犯者的意識を持って、過酷な現実を生きていきましょう。