被害者意識にさよならを
気持ちはわかるが…
マネージャーは被害者意識を捨て、当事者意識を持ってコトに当たるべきだ。
今日の結論はこれである。
確かに、被害者意識を持ちたくなる(持ってしまう)気持ちはわかる。
本当にマネージャーの仕事というのは、無理・無茶・無謀のオンパレードだからだ。
だからそれに対して、「何でオレがこんな目に…」と思ってしまう気持ちはわからなくはない。
でも、そう思っていても現状は何も変わらない。
人的な要因、組織的な要因、環境条件、など様々な理由でチームは苦境に立たされる。
それについて日々呪いたくもなる。
ただ、何年もマネージャーをやってきた僕が思うのは、結局のところそのような苦境はずっと続くし、何ならデフォルトでさえある、という厳しい現実である。
完全になくなることはない。
でも、だからと言って、何もできない訳ではない。
今日はそんな話をしていこうと思う。
被害者の立場が戦略的に有利な日本
「日本においては、被害者の立場を取ることが戦略的に有利である」
このような問題意識を僕は持っている。
何事に対しても、「私は被害を受けている」というポジションを取ることで、相手よりも優位な立場から物事を進められる、と思っている人たち。
「私が現在のような苦境にあるのは、周囲の人間(or環境etc.)のせいである」
「だから、あなたはそれに同情し、何らかの埋め合わせをすべきである」
そのような考え方。
まあ言いたいことはわからないではない。
でも、そのような考え方って幸福なのだろうか?
というか、いつまでそのようなスタンスを続けるつもりなのだろうか?
「今」も何もしないのか?
家庭・学校・会社。
ずっと親や教師や上司が自分の環境を定め、自分はそれに従っているだけ?
そのような人生?
僕にはよくわからない。
いや、言わんとしていることはわかるのだ。
自分の現在位置が、周囲の人間や環境によって大きく左右されてしまっている(されてしまった)、結果今の自分は苦境に立たされている、だから補償しろ。
僕だってそのような気持ちが全くないとは言い切れない。
でも、過去は過去だ。
そしてそこには(当然であるが)自分の選択も含まれている。
自分がそのような環境に甘んじた結果、現在のような状況になっている。
もちろん、不可抗力もあっただろう。
どうしようもできない事態もあっただろう。
でも、だからと言って、「今」も何もしないのか?
それが僕にはよくわからないのだ。
不幸を続けたいなら、どうぞご自由に
全ては他人のせいである。
他者が悪いから、私は不幸なのだ。
まあそうなのかもしれない。
でも、その現在の不幸を続けるかどうかは選択できるのでは?
結局、自分の弱さに向き合いたくないだけだろう?
「いや、あんたには私の不幸はわからない」
確かにそうだ。
じゃあ、それでどうするというのだ?
そのままいつまでも被害者意識を引きずり、不幸なままでいるのか?
結局のところ、そのような不幸な自分が好きなだけだろう?
厳しい言い方にはなるが、僕はそんな風に思ってしまう時がある。
そうすれば、自分を守れるから。
何者かに立ち向かい、敗れた弱い自分と向き合わなくて済むから。
受け止め方は変えられるのでは?
もちろん、僕だって努力が報われるなんてことは思っていない。
現在の不幸を、努力によって克服できるはずだ、なんてことは考えていない。
不幸は不幸なまま。
苦境は苦境のままだ。
でも、その受け止め方、それに対する向かい方、というのは変えられるのではないか?
少なくとも、その不幸には自分の責任もあったかもしれない、と考えることはできるのではないか?
その結果、何らかの呵責と、自分に対する嫌悪と、そうでなくなりたくないという勇気が湧いてこないか?
当事者意識というのはそういうことであると思う。
自分の人生を、完全にではなくとも、引き受けること。
その後で、どのような立場をとるのか。
そこから始めなければ、いつまでも自分という存在は受動的なままだ。
実利は皆無
僕は「志向性」というものを大事にしている。
それは現在の状況というのは変わらなくても、未来の状況も変えられなくても、変わる方向に意思が向いている、そのこと自体に意味があるというような考え方である。
実利は皆無だ。
というのも、現在は変わらないし、未来も変わらないから。
状況は不変。
でも、そこでの心持ちは変えることができる。
被害者意識のまま、自分は誰かに虐げられ続けていると感じながら生きるのか。
当事者意識を持ち、自分は自分の人生を主体的に選び取っている(部分的にとはいえ)と感じながら生きるのか。
結局は価値観。でも…
もちろん、こんなものは価値観に過ぎない。
ただ、もし価値観だとするなら、それを他者にばら撒くなよ。
自分が被害者の立場を取ることで、相手にその不幸を押し付けるなよ。
同情はする。
もしかしたら何らかの責任すら感じたりもする。
でもさ、と僕は思うのだ。
志向性を持ち、何らかの打開策を考え、実行する。
それは実を結ぶかもしれないし、実を結ばないかもしれない。
でも、少なくとも打開しようとしたという過去は残る。
その自分に対するちょっとした誇りのような気持ちが生まれる。
それでいいのでは?
というか、それしかないのでは?
僕はそう思うのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
自分との向き合い方。
僕は自分のことを結構信頼しています。
それはどれだけ苦境にあっても、誰かのせいだけにしないという点において。
僕は僕の主体的な世界に生きている。
そこでは紆余曲折、色々なことが起きる。
不可抗力的なものもたくさんある。
それを嘆きたくもなる。
でも、嘆いたところで何も変わらない。
というか、嘆いてもいい。
散々嘆いた後で、どうするか?
それが天変地異がこれだけ溢れる日本という国での生き方なのでは?
そこから立ち上がる力を僕たちは脈々と受け継いでいるのでは?
僕はそう思っています(そう思うことにしています)。
被害者意識を捨て、当事者意識を持って、生きていきましょう。