「無敵社員」をどう扱うか?
開き直っている社員は最強だ
「無敵社員」に困惑しているマネージャーは多いはずだ。
ここで言う「無敵社員」というのは、「昇進なんて考えてもないし(実際に望みも薄い)、程々の給料が貰えていればそれで構わない、怒られようが非難されようが関係ない、どうせ会社は解雇できないんでしょ? 給料が下がるなんてことはないんでしょ?」というようなスタンスで仕事に臨んでいる人のことを指す(ことにする)。
もう少しわかり易い言葉で言えば、「開き直っている社員」のことだ。
特にマネージャーである自分の方が年下で、「無敵社員」が年上である場合、対処はなかなか難しい(少なくとも僕はそうだった)。
今日はこんなテーマで書いてみようと思う。
日本型雇用への幻想と挫折
日本型雇用(新卒一括採用・年功序列)は、ある種の「平等」と「公平」を実現する制度だ。
一部の本物のエリートを除いて、スタートラインは一緒であり、経験年数と共に処遇も同じように上がっていく(ように錯覚させる)。
同期間での給与差はあまり大きくないように、みんなが同じくらい昇進の可能性があるようにする(信じさせる)。
我々は同じ釜の飯を食う仲間であり、家族である(ように装う)。
個人の才覚と努力如何で、自分の将来はある程度変えることができる(と誤認させる)。
そのように思いながら20代・30代を過ごしていく。
でも、ある瞬間ふと気が付くのだ。
それは幻想であると。
自分は「そっち側じゃない」と。
出世も昇給の可能性もないと。
でも、気付いてしまった時にはもう手遅れだ。
スキルも専門性もなく、住宅ローンを抱え、転職市場は冷え切っている。
矛盾に気付いた時に人は無敵社員になる
そうした状況に立たされた(中年の)社員はどのように思うか?
「できるだけ会社にしがみつこう」
「そしてコスパ良く働こう」
「どうせ働いても働かなくても給料は一緒だし」
これが「無敵社員」の初期形態だ。
もちろんこのように「気付いてしまった社員」であっても、それを真っすぐに受け止めて、そのまま実直に働いていく人もいる。
というか、そのような人の方が多い、と思う(それは日本人の美徳でもある)。
でも一方で、「無敵社員」として「育っていく」人もいる。
会社や上司の意向をあからさまに無視し、好きなことを言って、好きなように働く。
勤務時間中であっても、お構いなしに「ブラウジング」に励む。
そのくせ、残業代だけはたっぷりと取っていく。
やりたくない仕事に対して、平然と「それは私の仕事ではない」と言ったりする。
一介のマネージャーにできることは(正直)ない
厄介なのは、これが「労働者の権利」の範囲内であることだ。
マネージャーとしても大手を振って指摘することができないものであることが多い(それをするとパワハラだとか労基法違反であると言われたりする)。
こういう人が1人いるだけで、チームの生産性は大きく下がる。
でも、現実問題としてマネージャーにできることは殆どない。
何を言ったって、どのように指導したって、それが改善されることはない。
解雇権も減給権もない一介のマネージャーでは正直どうしようもない。
その人が異動するか、退職するか、マネージャー自身が異動するか、退職するか、しか逃れるすべはない。
綺麗事抜きで言うと、それが現実だと思う。
善意に頼る働き方の崩壊
日本の労働生産性が低いのは、もちろん残業時間が長いとか、色々な要因があるとは思うのだろうけれど、個人的な経験から言えば、このような社員が残存していることを許してしまっている(許さざるを得ない)ことが大きな要因の1つであるような気がしている。
たぶん僕だけでなく、経営者達もそのように考えているのだろう。
ようやく最近になって「ジョブ型雇用」というものが議論されるようになってきた。
これは個人的には望ましい傾向であると思う。
個人の善意に頼る働き方ではもう組織を維持することは不可能だ。
日本型雇用は昭和時代であれば、その見返りも実際にあった(会社にも余裕があった)ので、「グレー領域の仕事」もみんな(嫌々ながらでも)やったのだろう。
でも、時代は変わり、会社にも余裕はなくなってきた。
労働者側も、見返りがないなら、自分の仕事以上(グレー領域の仕事)のことをやっても仕方がない、と思うようになってきた(コスパが悪い)。
こうして、正直者が馬鹿を見る、ような社会が生まれてしまった。
誰かのケツを拭く、割を食う社員が、「やってられねえな」と思うようになってきた。
そうやってどんどん自分の責任の範囲を狭めることで、社内がギスギスしていく。
セクショナリズムと責任逃れで、真面目に働いていくことが馬鹿らしくなってきた。
これを「善意(ボランティア)」で賄うのはもう不可能だ。
かといって、解雇や減給は難しい。
となると、「仕事の範囲」を「定義」するしかない。
無敵状態を解除する為に
「あなたの仕事はこれこれです」と定めることで、それに見合った対価を支払う、というようなある種の契約関係を生じさせる。
世知辛いやり方ではあると思うけれど、もうそうせざるを得ないのだ。
「ジョブ・ディスクリプション」を明確にすることで、「グレー領域」をなくす(少なくしていく)。
それぞれがそれぞれの仕事をそれぞれの契約の範囲内で行っていく。
そういうことなのだ、きっと。
働き方が多様になった現代においては、たぶんそれが適切なやり方なのだ。
僕だって寂しい気持ちがない訳ではないけれど、少なくとも「正直者が馬鹿を見る」という状態はできるだけ減らしていきたいとは思う。
「無敵社員」を無敵じゃなくする必要はあるのだと思う。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「無敵社員ですら上手に使うのがマネージャーの仕事だろう?」と時々言われることがあります。
僕はこれはナンセンスだと思っています。
責任逃れみたいな言い方になってしまいますが、そういう社員は僕が採用したわけでもないし、教育したわけでもなく、現在「そのような状態」になってしまっているわけです。
そしてその状況を改善させる為の「アメ(例えば昇給権)」も「ムチ(例えば減給権)」も僕にはないわけです。
客観的に見ても、そのような社員が努力する意味(合理性)はない、のが現実(たぶん僕が同じ立場であったらそう思うはず)です。
プロスポーツ選手であれば解雇や減給や移籍という形になるのが当たり前なのに、そうすることはできない。
ここに大きな矛盾があるように感じています。
もちろんここには中途採用市場の整備であるとか、日本型雇用の改善であるとか、そのような制度的な問題があるので、大きなことは言えません。
ただ、その責任を現場に押し付けるのはどうなのかな、と僕は感じています。
「ジョブ型雇用」が万能薬ではないことは承知の上ですが、もう少し「仕事」と「処遇」を近づけていく必要はあるのかな、というようには思っています。
同じように悩んでいる方の参考になれば幸いです。