仕事との距離感
車窓に映る暗い顔の自分
自分がおじさんだと意識する年齢になるにつれて、仕事との距離感が変わってきたような気がする。
何というか、社内での評価に無頓着になってきたのである。
多くの「働かないおじさん」達が無気力に見える(そして実際に無気力でもある)理由が、おぼろげながらわかってきたように感じている。
それは若者風に言えば、日本企業というのは「やりがい搾取」で成り立っている、と感じるようになったからかもしれない。
将来の所得(給与)や住宅ローンなどの負債を差し出す代わりに、滅私奉公を求められ、やりたくないことだってやらなければならない、そしてその報いがある訳ではない。
向上心を持って、「いい仕事」をしたいと思っていても、それが叶うことはなく、むしろ「何でオレはこんなことやってんだろうなあ…」と帰りの電車で思うような日々の繰り返し。
今日の話はマネジメントとは直接関係ないかもしれないけれど、そんなことを書いてみようと思う。
幼稚な成功のイメージ
若くして昇進し、役職を得て、バリバリ仕事をやる。
入社した時に描いていたイメージは、自分で言うのもなんだが、既にある程度叶っているような気がする。
でも、それによって心が満たされている訳ではない。
そのギャップと乖離。
そんな状態のまま仕事をしている。
越えてはいけない一線
そこには、ある程度の貯蓄が貯まった、ということも関係しているような気もする。
僕はまだインデックス投資が日本に根付く前(ちょうど根付き始めた頃)から資産運用を始め、それが一定の利益を生んだことで、「仕事にしがみつかなくてもいいんだな」と思えるようになった。
皆さんもそうだと思うが、組織で働く以上、理不尽なことはたくさんある。
ましてや管理職ともなれば、理不尽なことばかりである。
でも、そんな理不尽の中にも、「これを越えたらヤバいよな…」という一線がある。
それを組織から求められた時に、Noと言える権利を投資をしていたことで得られたような気がする。
それだけでだいぶ気が楽になった。
仕事とは?
もちろんNoということと引き換えに、昇進のペースは落ちるかもしれない。
社内での評価も上がるとは言えないだろう。
でも、心の平穏というか、仕事への向き合い方は大きく変わったのである。
以前に比べて、仕事にとって本当に大事なことは何なのか、ということを真摯に考えられるようになったのだ。
経済的自由を手にしたい人だけが投資をすればいい
これは別に投資を進めている訳ではない。
ただ、選択肢として知っておいた方がいいよとは思うのである。
投資というのは誰かにやらされるものではない。
単純に「やった方が有利だと思うからやる」だけである。
煽られて納得もせずにやることはお勧めしない。
でも、たぶん、あなたの周りにもある程度の経済的自由を手にしている人は存在しているはずである。
大っぴらに言うことはなくても、もう少し自由に仕事に向き合うことができるようになっている人は、きっと以前よりも増えているはずなのだ。
そしてそれこそが、日本の働き方が良い方にかわるきっかけになるのではないか、と僕は思っている。
自分の仕事が無駄であったとは誰も思いたくない
年配の方を中心に、「仕事人間」「仕事中心主義」の考え方・価値観を持った人は多い。
でも残念ながら、彼(彼女)らが幸福そうには見えない。
それは、彼(彼女)らが自分自身それが欺瞞であることに気づきながら、無意識の内にそう演じているから、だと僕は思っている。
そうしないと、自己同一性を保てないというか、認知的不協和を解消できないというか、とにかく、自分が頑張ってきたことが水泡に帰すような気持ちになるのだと思う。
家族や自由な時間を犠牲にし、やってきたことが無駄であったという虚無感。
それを彼(彼女)らは自覚しながらも、認めたくないように僕には見えるのだ。
仕事中心主義と会社中心主義
僕は仕事が好きだ。
ただ、自分より年上の人達のような働き方には違和感を覚える。
「仕事人間」や「仕事中心主義」は別に構わない。
でも、僕から見える彼(彼女)らは、「仕事人間」「仕事中心主義」というよりは「会社人間」「会社中心主義」なのである。
勝手な思い込み(メンヘラ)
会社というのは擬制であって、身も心も捧げるような対象ではない。
ただの箱である。
僕たち日本人は、「こちらが身を捧げれば捧げるほど、相手も報いてくれるはずだ」というような考え方を持っているけれど、そんなことはない。
相手はただの箱なのだ。
そこにもう少し自覚的であるべきだし、現実的であるべきだと僕は思うのである。
仕事は変えたくないけれど、働き方は変えたい
家族を養うことができ、住宅ローンという足枷がなかったとしたら、あなたは今の仕事を今のような働き方で続けたいと思うだろうか?
たぶん多くの人は、そうは思わないだろう。
仕事は変えたいとは思わなくても、働き方は変えたいと思うはずだ。
そこにこの話の問題点があるような気がしている。
嫌なことは嫌と言いたい
僕たちマネージャーがつまらなそうに働いていると、当然ながら部下もつまらなそうに働くことになる。
でも、僕らだって無理やり楽しそうに働くことはできない。
だったら、まずはどうしても嫌なことは嫌だと言えるような経済状況を作っておくことが僕はいいと思う。
少なくとも、僕はそれでだいぶマネジメントという仕事が楽しくなった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「嫌なことを嫌だと言うことはダサい」という価値観こそダサい。
僕は昭和世代のダサさにウンザリしながら仕事をしています。
彼(彼女)らは自分達のことを棚に上げながら、その働き方を美化しながら、クソダサい命令に唯々諾々と従うことを大人の振る舞いだと勘違いしています。
矜持のない働き方に何の意味があるのか?
(ここにFワード)
血を流しながらでも、後ろ指を指されながらでも、僕は守るべきものは守りたいと思っています。
それがなかったら、何の意味がある?
「青臭さを抱えている奴は子供である」というその1周向こうの周回の中で、青臭さを抱えながら、僕は仕事をしていきたいと思っています。
もしそんな稀有で奇特な人がいるなら、共に戦っていきましょう。